はつ対面

男はどうしても紙幣を8枚以上数えることができなかった。手を止めて、苛立ちを断ち切るごとく席を立ち、再び椅子に腰掛けても、紙幣を数える指が8枚から先に進めることができない。同僚は彼の職業人としてのあらゆる素質を疑ったが、融...

男は走っていた。息は切れ切れ、呑み込む唾はとうに絶え、舌は乾ききって口の中にぐったりと横たわっていてもなお、休むことなく走り続けていた。小脇に抱えていたハンドバッグの中にはこの世で最後の一株となった狒々の頭部があり、万病...

その日私は、とある女性と映画館に行った。単館の、50席ほどの映画館で、別珍の布地が貼り付けられている座席は跳ね上げないタイプのものだった。映画はモノクロで、地の底の世界で繁栄を遂げる架空の国家に潜伏する男を中心に繰り広げ...

今日は眠らなきゃ

あと4時間で起きて仕込みに臨まなければならないのだが、抵抗する体は酒を口に運びまた口に運び、岐阜のCDショップで手に入れた『moonless』というタイトルのアルバムを流す。眠りたくない夜のために、といったフレーズで勧め...

少しずつ置いていく

その雨は止まない。止んだときには、そこに雨はないからだ。 私の手や足は空間に痛めつけられたわけではない。しかし雨風を凌ぐための梁や柱が私とあいつらをこの場所に足止めするのだ。いっそ泥まみれになるならば、自分から飛び込んで...

小湾の愚帝

カモメはいつまでも魚を取るふりをして錐揉みを続けた。魚影は、この桟橋からでも認められるのに、である。聞けば理由は明らかである、と。君はそっぽを向いている。 つまるところ、正義の正体が暴かれたわけではない。株価を変動させる...

変な人が出た

「はい、…ええ、…前もお伝えしたと思うんですけど、その宅はうちの北側の、苗字は同じですけど違う宅ですので…右手に街灯が見えますか?そのT字の交差点を左に曲がっていただいて…ええ、曲がったら突き当たりまで行ってください」 ...

光だ

彼女の声について考えることにする。10年前見かけた時はなんとなく怖い人だと思った。その怖さは甲本ヒロトや忌野清志郎に通じていた。あくまで主観だ。反論は壁に向かってぶつぶつ呟いてくれ。彼らは日本語で歌う音楽の最高峰…辺境を...

俺は今とてもダメだ

1秒はこんなにも早く、身体すこぶる重く、惑星の猛スピードにしがみついて難を逃れ、産毛のへばりついた汗の跡と口の周りいっぱいの砂、手持ちの品はそれだけ。今日もすでに夕暮れ。待ち人来らず、名も知らず(目の下のそばかすがとって...

紹介状

彼の仕事は7番街西地区のバラックに据え付けられた共同便所の糞尿をあつめ、トラックの荷台に乗った蓋つきのコンポストにぶち込んで回る…汚穢屋だった。 最初にダメにしたのは鼻だった。とにかく仕事の遂行に差し障るので、ジンでうが...