男は走っていた。息は切れ切れ、呑み込む唾はとうに絶え、舌は乾ききって口の中にぐったりと横たわっていてもなお、休むことなく走り続けていた。小脇に抱えていたハンドバッグの中にはこの世で最後の一株となった狒々の頭部があり、万病を癒すその効能に蝟集した人々によって乱獲が進み、栽培の手立ても見つけられぬうちから絶滅した。その、最後の一株を男は持っていた。奪い取ったのだ。しかし、誰の病を癒したくてこの暴挙に臨んだのか、男は一向に思い出せなかった。男はすでに20年逃げ続けていた。

ときおり、男は最初の瞬間…走り始めた最初の瞬間に想いを馳せる。あれは平和な取り決めだったように思う。頭を手渡されて…奴は「後をよろしく頼む」とかなんとか、穏やかな口調で言っていた。手渡したものの顔が思い出せない。左手の甲に大きな黒子…。男の人生はそこから狂い始めた。いや、正確に言えば始まった、といった方が正しいのかもしれない。

なぜ奴は私に、行き先も目的も伝えようとしなかったのか…。不可解でならない。終わりが見えないことは人の精神を簡単に蝕む。しかしことの始まり…頭の平和的な授受は確かに存在していた。だから確実にこの日々は終わる。始まりがなかったがために、いつまでも終わらない地獄とは違う。

追手のほとんどは年老いて死んだ。あるいは、疫病に倒れて死んだ。根性のないやつだ、事切れて路上にドテンと転がる奴らを尻目に男は思ったものだった。都会には、700年近く嘘をつき続けている者もいるらしいのに。面子だけで走り始めるから、すぐに身体を痛めてしまうのだ。

男はハンドバッグを見やる。何年経とうが、狒々の頭は今まさに捌いたような新鮮な血の匂いを湛えており、それがゆえに男は、誰一人頼ることも、素知らぬ顔をして街に紛れ込むこともできない。人目を避け夜を待ち走り続けたこの日々が、果たして本当に20年の月日をまたぐものなのか、ハンドバッグを見るたびに、男は不安に思うのだった。