その日私は、とある女性と映画館に行った。単館の、50席ほどの映画館で、別珍の布地が貼り付けられている座席は跳ね上げないタイプのものだった。映画はモノクロで、地の底の世界で繁栄を遂げる架空の国家に潜伏する男を中心に繰り広げられる冒険譚だった、無声映画だった。セリフとセリフの合間のシーンを少しでも見逃すと、前後の整合性を見失うと考えた私は、まばたきをしないつもりで食い入るようにスクリーンを見つめていたが、隣の席の人のハンドバッグの持ち手がふいに倒れて私の脚に触れた刹那、スクリーンから目線を外してしまったのを機に席を立って映画館を後にした。
雨は止み、歩道の微かな凹凸に溜まった水溜りがパチンコ屋の赤い電灯を反射している。十何房珈琲、という看板を見かけて中に入った。ブックラックに新聞がないことを認めて、少しためらったが席につき、首から上にじんわりと浮かんでいた汗をおしぼりで拭った。時計をみると9時42分とある。まだ、というべきか、もう、というべきか、測りかねた私は店員を呼びつけてホットコーヒーを注文して、店の電話の場所を尋ねる。母は今頃私の帰りを待っているだろう。受話器を耳にやって、左手の手首を見るとそこには知らない市外局番の電話番号が記されていた。ものは試しに電話をかけてみることにする。