光だ

彼女の声について考えることにする。10年前見かけた時はなんとなく怖い人だと思った。その怖さは甲本ヒロトや忌野清志郎に通じていた。あくまで主観だ。反論は壁に向かってぶつぶつ呟いてくれ。彼らは日本語で歌う音楽の最高峰…辺境を全て集約する力があり、俺は多様性なるものが好きだったため、辺境で奏でられる音楽を、無に帰すような力を持つミュージシャンを遠ざけるきらいがあった。

彼ら彼女らの音楽に殉ずるような姿勢を見るにつけ、音楽を従え、使役して個を見せつけるろくでなしのミュージシャン達が、児戯の枠組みに収められてしまう(あくまで俺の主観だ)事態は避けたかった。俺は彼女をむしろ辺境に追いやるようにして、シティポップやソフトロック、ファンク、ジャグ、MPBを聴いた。

でも爆撃の命を受けて飛び立つ戦闘機の真下では子供らが泥遊びに耽っていたり、アスファルトに打ち上げられたフナが今にも死にそうな傍ら、振られた女の子が防波堤から恋人と揃いで買った指輪を投げ捨てて帰る時、自転車のサドルが抜かれてうまい棒が刺さっているように、世界はまるで一様でない。それぞれが、めいめいてんでバラバラの文脈を走らせて、そして収束の気配はない。誰かが音楽の美に肉薄している傍らで、別の音楽が人々を踊らせることは起こりうる。

俺は彼女の音楽を久しぶりに聴いた。たしか当時の勤め先からほど近いお寺でのライブだった。終演間際さいごの歌で、マイクは脇に避けられていた。怖い。吸い込まれてしまいそうだ。その昔誰かが彫りつけた琵琶を持つ仏のような佇まいと天啓のような歌声を前にして、フィルムのコマ数が倍になったような、網膜に届く光の全てを捕まえて離さないような、私の身体は彼女の動きの全てを滑らかに記憶する機械それ自体になったのであった。

「仏教は他の宗教を排斥したりしないからいいよ」と、どこかの坊主が言った。じゃあなんでインドから日本まで伝播してんだよ。揚げ足取りみたいな反論を思いつく。しかしそんなことはどうだっていい。

ほんとうは、一つの場所に帰りたいのかもしれない。歩みを終えて、何も考えない場所に、もう戻りたくてしょうがないのかもしれない。母体回帰願望説とでも言うのだろうか。原典が見当たらない。そんなことばっかりだ。少し動いただけで砂の舞う水底で今は泳いでいって息継ぎがしたい。でも無理だ、砂塵が舞うと上も下も分からなくなって、手に当たった最初の魚にかぶりついてしまう。

なんの話だっけ。そうだ、彼女の声についてだ。彼女の声は、水底にまでよく響く。同じ水の中で歌ってくれており、光が彼女のいるところに差し込んでいるのかは、わからないけれど、少なくとも彼女のいる方角は分かる。それが伝わる。