ここにいないことについて

PAシステム、つまり一つ所にあつまった多くの人々に対して、同じ音質の音を届ける仕組みを作り上げたのは、戦前のドイツ・ナチ党であったとはよく聞く話である。
かつての演説会場であった劇場では観客が収まりきらず、野外に集まった一人一人の耳元に同様の音質を届けることを第一義として考案された、らしい。
つまり、最初に聴衆の増加が起きて、それに対応した形で生まれたようである。

時間についてよく考える。
時間という装置や考え方を作り上げたがために、私たちは他の誰かに遅れている、同時である、先についてしまった、という厄介な想念を得てしまった。
これは遅刻の壮大な言い訳である。
私が遅れたんじゃない、先人が時間とかいう、私を罰する仕組みをもたらしただけだ。君がそんなものを学んでしまったがために、私に対して不平不満を抱くはめになったのだ。気をつけたまえ。

そんなわけで、音楽を皆で聴くという催しも、他人と同時である、という概念が付いて回る。
そのうえに、音楽の鳴っている空間を他人と同時に共有する、というのが、他の娯楽が代替しえない独特の価値を帯び始めた。
音楽だけでなく、宴と呼ばれるすべての催しにその時間の観念がついて回っているのである。
乾杯に出遅れると、多少の冷ややかな目は甘んじて受け入れなければならないのだ。時間め。

なにか覆すことはできないだろうか。
堅牢な岩肌のように見えるものが、案外歴史の浅い代物であった。
では私は、何をすべきだろうか。
ひもとくべきものが見当たらない。
ひさしぶりの壁である。よじ登って、見渡すための高い高い壁。