爪を噛んでみても

素人の浅知恵は往々にして駆逐される。
できあがった風景を目の前にして、私は私の願いを初めて自覚する。

畑の話である。かなりぐちゃぐちゃだ。
畝をたてず、さらには土に撥水する物質を敷くことに違和感を覚えて、マルチを敷くのをやめてしまったために土が緩み、トマト、キュウリの支柱は倒れ、泥の中をのたうち回っている。
これはこれで一つの結果である。
不満を覚えないのであればそれで構わないが、私は当然のように不満を覚えた。醜い畑にしてしまったことを、後悔した。
土に触れるまでまるで意識したことがなかった(畑?田んぼ?どっちでもよくね?というレベルの感性だった)が、町のそこかしこに畑はある。
衆目にさらされている。無遠慮なくらい。
結果、上手に整えられた畑を見て、家に帰り私の野菜たちを眺めていると、心にふつふつと、見栄え良い畑を拵えたい願いが湧き上がってくるのを感じる。
願いを持つこと。私は好き勝手に耕し、種を撒くのでなく、どこかへ行きたいと思ってしまったのである。

お金の流れがある。
誰かの手に渡り、不特定多数の人々に、再び配られる。
上司の身銭、売上の内のいくらか。インセンティヴ。額の大小。
よほどの好事家でもない限り、お金の流れによって人々の行動はある程度収斂されていく。
頭を下げる相手、口をはさむ相手、お金のためにあてがう時間の多少。
私は自らを普通の人間だとは思わないが、つまらないありふれた人間だと思う。
決められたお金の流れでは、私は予想され得るパフォーマンスしか、してこなかった。
私はコーヒー豆屋として、お金の流れを決めたり、値段をつけてしまうことで、私は他者の、どこかへ向かおうという願いをくみ取る格好になる。
そこから逃げ出したいと考える。打ちやっておくのではなく、別の道へ行きたい。
だけれども出口が見つからない。最近はいつもそうである。
よそ様の畑を見つめる。こんな畑をつくってみたいと、願ってしまう。
逃げ出したい気持ちと、屈服してしまいたい気持ちとのないまぜ。
汚い畑。妻は言う。私もそうだと思う。
整えたい。綺麗に完成させたい。
それがこんなに身を引き裂くような気持ちをもたらすとは思いもしなかった。