「心が心を助けて…」

バンドという単位の不自由さに思いを馳せる。

もっと上手にギターを弾ける人間は、彼のほかに5000人はいたかもしれない。
本当は一緒に手伝ってほしい人がいるけれど、彼は仕事が忙しくて、無下に断られてしまった。
次の楽曲ではドラムセットを一新してほしいけど、ドラマーの彼はプレイスタイルと異なるから嫌だという。
ギャラが払えそうにないから、今度のツアーは弾き語りで回ろうかな…。

音楽というものを時間芸術であると…、彼の内側を波打つ産湯に使っているなにか、美しさのようなものを表現するツールであるとするならば、バンドというのはもう笑ってしまうくらい、その目標の遥か手前に雑然と散らばっている人間関係に足を引っ張られてしまう、どうしようもない単位の集団である。

The Birthday というバンドがいる。
私はこのバンドにいるギターの人が嫌だった。
プレイから佇まいから、全てが理解に程遠く…それが楽曲に独特の個性をもたらしている、というものでもない。
私が感じているのは圧倒的な、彼らの目標としている理想への程遠さだった。
しかしバンドは人が営んでいる。
バンドだけではない、文庫本を片手に立ち寄る喫茶店も、駄菓子の打っているあの煙草屋も、チェーン店だったとしても、馳走しているのは人間であってドローンではない。
4人の人間関係の上で、彼はどうしても、なくてはならないキャラクターだったのだろう。
ではそんなあべこべな、美意識への到達がままならない集団が何を表現しているのだろうか。

山下達郎氏が「演奏していて楽しい曲は?」と質問され、「人に聴かせるものなので自分が楽しんでちゃいけない。(中略)ずっと後ろのことを気にしてるんですよ。あいつ、ちゃんと段取り通りやってるかな?って」と答えている。

バンドが表現しているのは人間愛である。
客である私たちは、ステージの上に立つ複数人が、目くばせや間の取り方で、心を助け合って長い距離、時間を飛び続ける渡り鳥の群れを、ライブハウスに居ながらにして目の当たりにしている。
極論をいうと音楽は二の次である。
私はあの場所で、人が人をどうやって愛しているのかを確かめている。