生きるのも死ぬのも怖くて

私の旋毛から糸が真上に伸びていたとして、それはどこにつながっているのだろうか。
人間の目に映る景色のもつ色は、物質自体が色と呼ばれるものを持っているわけではなく、可視光線を受けて特定の色を反射しているだけだといった話を、昔テレビで見た。
私の人生で何度か訪れる、世界の枠組みがガラガラと崩れていく感覚に襲われ、椅子に座った心地がしなかった。
動悸早まり、キッチンはぐわんぐわんと回り、揺れ動く視界の中で、あ、この壁紙の溝一つ一つが、白とかクリームの色を返しているんだなー。なんて思った。
自分が自分の心だとおもっているものは、世界と自分とを薄皮で分けるこの身体に等しい形のもの、つまりこの身体じたいだと根拠もなく断定していたことを悟り、と同時に瓦解させられたわけである。
しかし、私を頽れさせたテレビの情報を頭から信じ込むならば、私と私の所有物であるところの身体との間に、ギャップがある。
身体とは別の場所にいるなにかが、情報を処理している。
その処理の作業にあたっているのは私か?
そうであるならば、私はどこにいるのか?
だんだんと茶色くくすんでいくこの皮膚の、薄皮一枚剥いだところにコントロールルームがあるのか、それとも完全に別室の、まるで異なる天体から私は私を操っているのか?
馬鹿なことを言っている、とお思いだろう。
百人に尋ねて周れば、恐らく多くの人が、そのコントロールルームは脳で、作業にあたっているのはあなたで、そのあなたはここにいると答えるのだろう。
わかってはいる。死んだら腐る。けれども心が、ほかならぬ心が、科学的な見地からの答えを受け取ることを拒否する。だって怖えじゃん。私は全部私の身体の内側にあって、死んだら終わりであとは腐るだけなんて。

iPhoneてあるよね。
時計、電話、ウォークマン、財布、カレンダー、メモ帳、新聞…いろいろなものを駆逐し続けるスーパーなガジェット。
iPhoneをオールインワンで製造できる機械がもしあったとしたら、なんだか滑稽じゃない?
むしろそっちの機械の方が、iPhoneより優秀であるので、そちらが欲しい。
で、人間の情報処理能力に対しても、私はiPhoneに引けをとらない、とてつもない潜在能力を感じている。
電卓は瞬時に数式の解を求められるけれど、式に代入する値の判断は全くできない。
なにが言いたいかというと、とてつもない我ら人間は、子供をつくることができる。
とてつもない我ら人間をもう一体、増やせる。
どんなメカニズムにもなしえていない事を、パートナーの協力のもと(ここが重要なポイントなのかもしれないけれど)、なしえる事に、疑問を感じる。
まだ謎がはびこっている。GPSの目の届かない奥座敷に、それはある気がする。