8月32日

昨日は日記を書き忘れていたようである。
もし私が今、ラップトップを閉じて液晶テレビにたたきつけ、i-Phoneを不燃ごみの袋に投げ入れ、日めくりカレンダーを最後のページまで破いて捨てて、時計の盤面を玄翁で叩き壊したとしたら…私は今、何月何日の何時を生きている可能性があるのだろうか。
いや、その日付の枠組みから解放されるのだろうか。
扉をたたいて私を呼びに来る家族、友人の存在が絶えてしまったとしたら、私は久しぶりに時計やカレンダーに目を通したくなって、スーパーやコンビニエンスストア、神棚の高さにテレビのある定食屋に嬉々として駆け込んで、「ボンジュール、今日は何月何日だい?」なんて口走るのだろうか。ここはパリでもないのに。
今日が何月何日であると、人々が思っている日付の確実さを担保してくれる存在は、所詮人であることを考えると、どうも脆弱にすぎないだろうか、とも思う。
でもしょうがない。人が作ったルールなのだから、猫が保証してくれるわけはない。
ある朝、世界中の誰しもが起きることを忘れて、そのまま誰にも気づかれずに済んでしまった、一回転分の地球の自転について思いを馳せる。
8月32日。想像上の、楽園のような一日。