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雨の日曜日。
今日は朝からちょっとしたズレを感じてしまい、少し悶々と過ごす。
私の生活において替えのいくらでも効く、あなたでなくとも誰でもいい存在、というものは存在する。当たり前だ。すれ違う人、コンビニの店員、交通整理をする人、車内アナウンス、足を運んだライブの観客、彼らが誰であるか、私にとってはどうでもいい問題だ。だがそれが認められない。認めることに少なからず残念な気持ちが付きまとってくる事に気付く。そして私自身も、あなたにとっては誰でもいいはずなのに、それが認められない。なぜだろう。

私自身が他人にとって誰でもいいという事実を認められない感情は、時間はかかったものの、比較的容易に解決をみた。現状選んだ小商いがそれをもたらした。貧乏するリスクがあることも、眠れない夜が何日も続くことも、全部織り込み済みで、法人格を取得しない、頭からケツまで、すべて私の責任の下完遂する仕事を選んだ。
私を…私の作る表現物(コーヒーとドーナツ)を見てもらい、かつ金銭を受け取る。とんでもない業突く張りだ。なにはともあれ私を見て~なんて、のんきに歌ってるようなもんなんだからな。平和な日本でよかったぜ。

とはいえ私は、重圧がないと言葉が一つも口をついて出てこない、唖みたいな(もう今じゃ「おし」ってタイプしても予測変換で出て来やしねえ)人間だったんだ、自分の体に鎖を巻き付けないと、恥も恥とも思えない、とんでもない暗愚なんだ、そもそも。
だから家族を得た。すべての責任を一人で受け止める小商いを選んだ。
私はこの生において鎖をお求めだったんだよ。

でも、上記の半生を踏まえたとしても、他者が誰でもいい事実を認めたくない感情の方は、スムースにはその由来を見出すことができない。夜のバイパスのドライブで、車の天井を素早く駆け抜けていく影の由来を見つけることができないようなもどかしさ。私が人に「あなたであること」を要求してしまう感情の由来…。
今はまだ暫定的な解しか得られないが、もしかしたら、あらゆる人に私は責任を取れ、って思ってるのかもしれない。戦争で文化が根絶やしにされることがなく、低質な娯楽があらゆる荒唐無稽なドラマ、リアリティショーを描き切り描き続け、そしてそれら幾何級数的に増殖する毒物を一身に浴びて、真心の所在が分からない私たちの眼前にはこれから起こるであろう人生の機微と、傍らには類似したドラマのサジェストの山積。
(あなたの今口にしようとしている『愛してる』というセリフは、このドラマでも用いられています!)
うるせえな、黙っててくれよ、うんざりだ。
俺は責任を取りたい。あんたも責任を取れ。吐いた唾、吞まないでくれ。