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優しさを余すことなく発露することのできる距離がある。と思っている。
彼は亡くなった元妻の飼っていた犬を引き取って育てているらしい。
二人の関係がどのように終わりを向かえたのかは私には知ることができない。
すべての対人関係を遠浅から眺めていたい私のもとへは、嘘でもいいから美談だけ納品してくれればよい。別にだからと言って、納品された美談を誰かに喧伝することで、人の気を削ぐような真似はしない。してるかもしれないけど。
「『この人となら不幸になってもいい』って思えたから結婚したんだって、私の姉。それってすごくない?普通だったらさ、『この人と幸せになりたい』とか思って結婚するじゃない?」
13年くらい前にそんな話をしてくれた人がいた。あいにく私は刃こぼれしつつもその抜き身を仕舞うことのできない20代半ば、「死ね」と思った記憶。
久方ぶりに思い出してみたものの、やっぱり「死ね」と思った。誰に?分かりません。
しかし、聞きかじりの美談は喧伝してくれなくて結構。ほんの少しの日光と風と水でむくむく育つ竹みたいなもので、惨めさっていうものはすくない養分で心のどこまでも蔓延っていく感情ですので、心の畝で私はなるべく別のものを育てたい。
規矩術をスピーディに取り扱うための演算能力とか、指板の上にこれから演奏する楽曲に最適なスケールを展開する目と耳とか、170℃以上に達した米油の匂いを嗅ぎ取る鼻とか、そういったものを育てたい。
スポーツ的な技術…狙った結果を継続して、連続して引き出す技術、というのは、そればっかり目につくようになってしまうと煙たく感じてしまうわけだけれど、それでも体系的な知識や技術を要する場面ってのは沢山ある。でもそれは結果物が人様の心になにかしらの感情を想起させることを狙って身につける手段であって、目的とはならない(あー、手段と目的が入れ替わっている、という指摘って手あかに塗れてるから使いたくないのに、使ってしまった)。

全然関係ない話をして日記を終えます。
youtubeばっかり見てます。そのうち、CMを排除した有料の契約をしていない人に対するマウンティングがはびこるだろうから、今のうちに口にしておきたいのだが、google アプリのCMで想定されている人間という存在が、すごく馬鹿なので、googleにコケにされている気分がぬぐえない。
「google アプリを使えば、目の前の建物がなにかわかる!珍しい動物の大きさが体感できる!各webサイトにおけるパスワードを一括して記憶!日本語に対応していないサイトも翻訳できる!」
とのことです。
目の前の建物がなにかは、勇気を出してドアを開けて尋ねろ。動物の大きさの前に、自分の手のひら一杯広げた際の寸法、手首から肘までの寸法を覚えて敷衍して想像しろ、パスワードはローカルか、手帳でもいいからメモして管理しろ、外国語のサイトは辞書片手に唸れ。
なんかほかにもあったな。ほしい器をカメラで撮影すれば、類似した商品を提示してくれる、といったもの。
これも、高台の方に名前が彫ってないか、縁の厚みから磁器なのか陶器なのか想像したり、釉薬の有無やその色味から想像したり、形状からぐい呑みなのか蕎麦猪口なのか想像して、テキストとして入力すればいくらでも検索できるだろうに。
がんばりましょう人類。学ぶことで得られる快楽は、たぶんドラッグ決めるより何倍も気持ちいいっすよ。