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ガンダムのプラモデルを作るのが好きだった。
もっと好きだったのは、完成したそのプラモデルをニッパーやペンチで割ってボロボロにすることだった。
左足の膝から下が欠け、肩から配線を模した小径のバネが飛び出ているマスターグレードのガンダム試作2号機。
設計図通りに仕上げた段階で、なんて美しいんだろうと息をのんでいたくせに、数日で私はニッパー片手に破壊することをやめられなかった。
破壊されて不具(不具も変換で出なかった!かつての表現が、攻撃性を持つということで使用されなくなることは理解できるが、存在自体を抹消するような働きかけに私は反対する。人が言葉の使い方を学ぶ機会を奪ってはならないと考える)となったガンダムに、ミロのヴィーナスにそれを見出すように、積極的に美を見出していたのであればまだ建設的だが、そんな心情が当時の私に備わっていたのだろうか。もうわからない。
破壊して愉悦に浸る、そこにどんな歪みがあったのだろうか。

サメマチオという方の短編漫画の一つにおいて、高校生の女の子が「今が戦争中だったら!私はエースパイロットになって世界を救うのに!」といった内容の妄想を繰り広げる話があった。
世界がどうしようもないくらいの災厄に見舞われて初めて抱く、途方もない身の丈をはるかに超えたスケールの愛情。
戦禍の前で世界がシンプルな対立の構図に落とし込まれることで、行き場のなかった正義をどこに振りかざせばよいのか分かったような気になる錯覚。
目も当てられないくらい愚劣な思考回路だが、山を下る途中で生き別れた兄弟かのように、他人のものとは思えない、いつも傍らにあった思考回路で、それは先に述べたガンダムに対する破壊衝動とも隣り合っている。隣り合っているのは分かるが、それらの想念がどこを目指して座席に座っているのかがわからない。行き先を告げられないバスを、走らせている私。

最近、尹雄大さんというインタビュアーのオンライン講座を受けている。
コーヒー豆を販売している私の商売は、大きく括ればサービス業であり接客業で、製造業的な色彩を意識するよりも、人を喜ばせることに注力するほうが性に合っている。
独りよがりにならぬよう、お客さんの話に耳を傾ける技術を欲した末の受講である。
講義中に触れられた、「ドラマに依存している」という発言が、私の頭の中を数日ぐるぐると駆け回っている。
「できごとをできごとのままに認識することができず、受け手である個々人がそれぞれに解釈を挟む。そこにドラマが生まれてしまう」
「くっついて離れない記憶との付き合い方」と題された講座において、その生じてしまったドラマというものが、誰かの話を曲解させ、人の話を聞いているようで自分の話をしてしまう、という事象を引き起こしている、といった話を氏は私たちに説いた。
私は、私の陥りやすい状況を克明に表した氏の言葉にいたく感動しながら、反面、非常に息苦しい思いを患った。
ドラマ以外に、人間との交わりに何を期待すればよいのか、まるで分らないからだ。
壊されて無残な姿となったガンダムと、苦悩する少女の姿が脳裏をかすめる。
心に抱いた愛や正義の情念をふんだんに敷き詰めた皿を手に持ちはしたものの、いったい誰に振舞えばいいのか見当もつかず、広い世界の、広くて複雑な世界の小さなデシャップで立ち尽くしている私は、この一皿を届けるに足る十分な理由として他者にドラマを要求している、飽くことなく。
または、有り余った熱量がゆっくりとゆっくりと逓減して燃えがらも残らなくなるまでの時間に、飽き飽きとしているのかもしれない。
人と手を取り合って、うすぼんやりとした好意的な感情だけを手掛かりに生きていくことはあまりに難しいことのように感じている。
ドラマが見せる幻なのだろうか。
羽をはやしたままで人と暮らしてみたい。
ドラマへの依存。これから私が念頭に置くべき言葉かもしれない。