4/4

どうしたって一人でやり過ごさなければいけない事ってあるよね。
呑むペースや酒のチョイスを間違えて、戻してしまいそうな家路。
仲間とギリギリまで構成を詰めて臨むプレゼンやコンサートでの自分の担当、ソロパート。
遊び歩いた帰りの電車、最後の友達と別れてからの道のり。
月の欠け具合と照葉樹の返す鈍い光と横顔の画角。それを綺麗だなーと思う気持ち。
口の中から鼻へと抜けていって消えていくコーヒーの余韻を辿る時間、とか。
したことないけど、出産もそうなのかも。
生まれてくる時だって、きっと自分で決めなければいけなかった。

猫ミームに負けないくらい、いつもハッピーハッピーハーッピーで生きているので死ぬのがたまらなく怖い。考えるだけで、心臓は動悸に近い早鐘を打ち、死への恐怖で死にそう、または死の恐怖と向き合わずに済むなら死んだ方が幾分か幸せなのかもしれない、というよく分からない転倒を起こすことがある。いやーマジで怖いよね、死。
でも多分、死ぬのが怖いんじゃなくて、親からもらったこの身体と別れる事になるのが怖いんだと思う。親類が亡くなって、荼毘まで見送って真っ白なお骨を見たときなんかは、もう今までの形式…現実世界で身体を伴った状態で会うことは二度とできないんだということをまざまざと感じたわけで、ものすごく悲しい気持ちがやってきた。
そして、冒頭に挙げた一人でやり過ごさなければいけない事柄というのはぜんぶ、自分の身体を襲ってくる何かしらの刺激であって、友達や家族は経験則から共感したり同情したり、激励することはできても、共有することはこれっぽっちもできない事柄なのである。
ちょっとも分かちあってくれない。し、私もまったく分かちあえない。ごめんね。

そういう意味で言えば、身体の制約から解き放たれて、好きな人たちみんなで、ひとつの大きなゼリーになって、美味しいも怖いも全部分かち合って生きていくことができたら、私のこの恐怖というものは薄まるのかもしれない。まあでもたくさんの人を俺は好きになれる自信があまりないね、好きな人の好きな人…みたいな少し距離がある人、なんか微妙なおっさんとかがゼリーイン(ゼリーの一員になる事をそう呼ぶことにします)してて、妙な見覚えのないすね毛とかがチラッと視界を掠めてくると、ゲンナリするかもしれない。好きな人というのは、手足の指先の形を知っている人のことかもしれない。

この世における私の心を好ましく突き動かす事柄、たくさんあるけど、それらすべてを受容しているのはあくまで身体であって、心なんてどこにもないのだとしたら…。
本当の本当に、救いがないし、なるべく、何を見ても何も思わないで、目を閉じ耳をふさいで暮らし、私を訪ねてくる暖かい風の一陣も起こらないことを、少し寂しく思いながら、すごく寂しくなることを明確に避けて静かに暮らしていくしかない。
いやだねえ。心なんてものが、あるといいねえ。