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久々にブログを書きます。本当に今年は全然書いてないな。書きます。
よく、漫画やアニメなどで、普段は大人しくてどちらかといえば引っ込み思案なキャラクターが、ここぞというときに目覚ましい働きを見せたり、要点を的確に突いた指摘をする、みたいな場面がみられる(見られたような気がするけど具体例が浮かびません)よね。
でも現実ではそんなことまず起こりようが無い。
本質を捉えるような指摘って場数を踏んでない人にはとんでもなく難しいし、関係する人物たちの力関係によっては本質が必ずしも問題を解決に導く力を持つわけではない。
何を言ったか、ではなく誰が言ったか、の方が重要な場合がほとんどで…。だから、内気であまり発言をしない人が口を開いたところで、誰にでもわかってる内容をオウムみたいにふにゃふにゃ…しかも発言しなれてないから声の調子、抑揚や声量、言い回しにおける細かいミスが挽回できず、誰にも骨すら拾ってもらえずに排斥される事がほとんどなのではなかろうか。
ひどい話だ。いや、ひどい話か…?
物語という媒体を、その作り手を、現実社会に対して様々なルサンチマンを抱えて、抱えたままの人々に、委ねすぎてるような気がするときがある。作り手の分母がわからないので、議題としては稚拙ですみませんがね。
漫画やアニメで紡がれる物語が、あまりに奇跡ばかりを描写していると、鼻白む。
鼻白みつつ、三島由紀夫氏が記した『葉隠入門』にたしか、「『武士道は死ぬことと覚えたり』という有名な一節は、なぜそのように記されたのかを考える必要がある。つまり、この書籍が執筆された江戸の世は天下泰平、かつてのように誰も主君のために腹を斬っていなかったからこそ、諫める、願望の意味でそう記したのだ」といった内容のことが書いてあって(要諦は間違っていないと思うけど、記述ディテールが大幅に異なる可能性あります、気になる方は調べてちょ)、示唆たっぷり。コンビニのゼリーみたいに、たっぷりの示唆だなと思う。
起こりようがないからこそ、記録することに意義があると感じる人が存在したわけで、だからそれはつまり、物語には記録すべき希少な光景のみが蔓延っているはずで、凡庸な物語は排斥されているというのが常なのだろう。
何が言いたかったのだろう。忘れた。
夢見がちな私としては、語ろう、記録しようとは夢にも思わないような凡庸な毎日を、記録したり愛でたりする技術が欲しいな、ということなのかもしれない。
ひとまずブログ頑張ります。