邪宗門とその町

すこし昔の話。
ジブリの中では『耳をすませば』が好きだった。
Olivia Newton-John の名カバーをバックに、冒頭、多摩川を渡る京王線が分倍河原駅に滑り込んでいくシーンが特に好きで、当時清須の町から出たことのなかった私にとってそこはきらびやかな町で(駅を降りたらすぐにコンビニがあるなんて!)、舞台が東京であるとは意識もしていなかっただろうが、だだっぴろくて抑揚がないわりに、四方はしっかりと山に囲まれて息苦しい濃尾平野の中ほどの農村に住む私にとって、起伏に富んだ多摩地区のベッドタウンの光景は憧れだった。

上京して一年目、憧れの聖蹟桜ケ丘――雫が猫を追って図書館までの道のりをひた走ったあの町である――が電車で一時間ほどの場所にあると知った私は、意気揚々と京王線に乗り込み、猫を追う彼女の足取りで階段を降りて、そしてそこで、あまりの交通量――車である――の多さに、驚きそして落胆したのだった。

雫が猫を見失った横断歩道は片側二車線の都道、しかも車は遠慮なしにびゅんびゅん飛ばしていくわけで、私が劇中に感じていた寸法とは少しく異なっている。
図書館まで続く坂道も、常に後ろからやってくる車を意識して歩かねばならない程度には車通りが多く、心地が悪い。

しかし家に帰って映画をもう一度見返してみると、劇中では複数回にわたり、車という存在が、主人公の行く手を阻む舞台装置として描かれている。私の感受性の問題か…。絵に描かれ、音を発するくらいでは、私は「それ」にクルマ性を認識しないというわけなのだろう。
そうこれらは、現実に似た営みを繰り返すけれど、フィルムの中の非現実であり、ともすれば宇宙人の営みに近いのかもしれない。


毎夜、死にたくないと布団にくるまりながらおびえているくせに、とっととおっ死んで、一葉の写真になってしまいたい気持ちもある。
腐敗が進んで酸化していく皮脂、汗、愚にもつかない日本語と昨夜の食事を物語る口臭、骨太な肉体に授けられた質量、流し目や舌打ち、空咳、ありとあらゆる騒音、そういったものをともなってしまう存在から、早く解脱してしまいたい。
私の写真を偲ぶものが現れたとして、その彼らの瞳に宿る心を覗き見してへらへらと笑っていたい。
我ながらこじれ切った厨二病である。
でも羨ましいよね、いつまでも年をとらない聖司くん。