走りたい

母は高校時代、剣道部のマネージャーだった。

初めて有段者となった時私は、段はいくつまであるのか、最高位の八段は、数えるほどの人しか有していないことなどを聞いた。

「八段持ってる人が少ないなら、八段の審査は誰がするん?」という質問に対し、母は「七段の人が審査するんだよ」と答えた。この答えは、私に拭いがたい疑念を生みつける。

最高位の技術者をそれと定める者らが、低位の人間であるのは、どうしたことだろうか?

八段の高みに達した(または、達しつつある人には、彼らにしか知り得ない身体感覚でもって審査に臨むのではないのか。それを見定めることのできる七段の審査員たちはつまり、八段なのではないか?

つまり、七段の審査に通った時点で八段なのであり、それは最高位が七段であることを意味しているのではないのか?

とある年の、イエメンのコーヒー豆が良作であったらしく、それを飲んだ客が「これぞ、マタリ中のマタリ…!」と褒めそやした、と言ったエピソードを記した書籍がある(マタリとは、イエメンで収穫されるコーヒー豆のこと)。

これも私には疑問である。批判の意図はない、ただマタリの中のマタリを決めるのは、いち常連客の味覚であってよいのか?では仮にそうでないとするならば、誰が決めるものなのか?

言語の用法として、制度として利用が可能だが決して身の伴わないものがある(「永遠に愛し続ける」ことは、口にしたものらの身体が腐り落ちても未だ履行中である!)。

上に述べた事柄はすべて、まるで子供のような屁理屈だ。大人になればわかる。制度はそんなに完璧に機能はしないものだ。機能することが肝要なのではなく、その存在の継続が重要だったりするのだ。

結論を急ぐとするならば、待ち受けるのは死、だけである。結論のはるか手前で四苦八苦して、悪戦苦闘することを私は肯定したい。

走りたい、でもそれは急ぐためではない。走るためだ。