壮大な肩透かし

祈りを捧げるようにして畑を耕している。
おおげさでなく、世界ががらりという音を立てて変わる、変わっていく音が聞こえる。
学校が変わる、私たちを隔てたり、互いに頬を寄せ合わせたりしたパノプティコンが変わる。
恥ずかしさが変わる、豊かな気持ちのやってくる場所が変わる。
それがいったい、世界に取り組むいかなる姿勢を私にもたらすのだろうか。

小さい頃のおままごと、友達や従妹とお気に入りの動物のぬいぐるみを持ち寄って、夢中になって興じたあの遊びを思い出す。
幼い生き物固有の全能感や、今では思いだせないような驚くべき価値観を私も多分に漏れず持ち合わせていて、私の場合は特に、誰かが食い物に困る、貧乏する、金に困るといったシーンがとにかく嫌だった。
友達のぬいぐるみに、「はいひゃくまんえん」だの、「はいいっしょうぶんのたべもの」だのと、現実感のない、切符の良いキャラクターを演じることがとても多かった。
そんな価値観の残骸を、ところどころほつれて古くなり、黄ばんでいても手放せないお気に入りのタオルケットのように(品質表示のタグがとにかく好きな子供だった)ずっと持ち歩いている私は今でも、女性が財布の中を――それがどういった理由であれ――よくよくのぞき込んでいる姿を見るのが苦手である。

お金が足りないというのは、私にとってこれからも、みじめな事であり続けるのだろうか。
砂利を取り除く視界の端に、短い葱のような、すこし膨らみを帯びている細長い草を見かける。
これはあの人が好きな、野蒜というやつだろうか。
手元に調べるものがないので、確認ができない。
家族のだれも野蒜の見分け方を知らないので、憶測を後押ししてくれる人もいない。
わからないまま、打ちやっておいて、店で手に入れた安全な苗や種だけを植えて、正当な結果だけを口にしていても良い。
それが昨日までの暮らしだとしたら、今日からの私は、例えばこの目の前の名も知らぬ青緑色した肉厚な草を、口にしてみるような心を持ってみよう。
生まれ変わったような心地がしないものかと、風呂桶いっぱいに張ったお湯の中に何度も何度も頭から潜ってばかりいた時期があった。
肩透かしだ、世界は少しも正気を失わないままに朗らかに生まれ変わるのだな。