なくなってしまえばいいのかも

コーヒー豆を焼いて売っている。
知らない人がいるかもしれないが、このブログはコーヒー豆を焼いて売っている人間が書いている。

コーヒーというものに、いまだに少し違和感を感じる。この国で、ないし私の住む町で摘まれたコーヒーチェリーを、精製して焙煎しているわけではないからである。
これはいささか潔癖が過ぎる愛国心ではない。池の水を抜いて、外来魚と勝手に我々が区別している魚を見殺しにする遊びではない。
グローバリズムの残滓みたいな、動物園がいまだになくならない事に対する違和感みたいなものだろうか。
あの場所は、子供が喜ぶから連れていくが、喜ばないなら連れていきたくない。できることなら行きたくない。
生まれ育った町を離れることは良くない事である、と言いたいわけではない。
どの町でも同じようなものや感動が手に入ることに対する違和感である。
奈良くんだりまで来て、セブンイレブンに行きたくない気持ちに近い。
コーヒーノキは赤道周辺の国々で栽培される。それらの種子を焙じて抽出されたエキスが、日本でも飲める。
たぶん、いつかはこの違和感と面と向かって戦わねばならない気がしている。
コーヒーが栽培できないのであれば、日本からコーヒーなんて、なくなってしまえばいいのかもしれない。脳裏をかすめていく、刺々しく相槌に窮する考え方である。
とはいえ私はまだ駆け出しである。黙ってたくさんの豆を、多くのお客さんに届けられるようにしているうちに考えればいい。
日々豆と炎に向かいながらも、コーヒーという植物に固執せず、人間の食べること飲むこと、明日もその存在を維持していこうと思えるような、力をためられる巣穴のようなものを夢想する。