7/22

「最初の殺人者」カインに殺された弟のアベルは、カインの子孫が地上から絶えるまで叫び続けている、らしい。
また、ギリシャ神話に出てくるシシュポスは、神罰によって永遠に岩を山頂まで転がし続けている(頂上まで運んでも、岩は自重で転がり落ちちゃうので山を下ってまたやり直ししなければならない)、らしい。

永遠というものを、この2mにも満たない小さな身体のさらに小さな脳みそで以て想像すると、あまりにスケールが大きすぎて笑ってしまう。
ああそう、昔卒業旅行でアメリカに行った時、「死の谷」が見たくてバスツアーに参加したのだが、『Welcome to the death valley』みたいな看板が見えてから、目的地に辿り着くまで1時間以上、延々とバスに揺られていた事があり、その冗長な道のりに、私の中のスケールと呼ばれている概念に関する感性がUSAサイズじゃない事を痛感した記憶が蘇ってきた。
「死が二人を分つまで」という制約で以て男女は結婚の誓いを立てる。
契約期間は数十年、の話だろうか。
永遠の前では、瞬きくらいに短い時間。
でもこの身体にとってはあまりに長い時間で、しかし「永遠」の監督サイドの存在からしてみれば、例えば禁煙生活を今日初めて明日諦めようが、半年続けてみようが、死ぬまで続けようが、500万年禁煙を続けてみて501万年目の初日に禁煙を諦めて煙草を燻らせようが、どれも全て等しく「非・永遠」なわけで、部分点とかあるの?

開高健氏の自伝的小説を読んでいた時、「おめえみてえな出来の悪いのが考えるような話じゃねえんだよ」といったニュアンスの台詞がどこかにあった。
その本を手にした当時、どんな事をして暮らしていたのかは覚えていないが、きっと世間と呼ばれるものを遠ざけて自分の殻に篭っていた時期で、やいのやいの言ってくれる人がいないと自我とか自尊心というものは不健全な肥大化を始めてしまうもので、なんだってできる!という全能感が身体を包んでいる割に何もしていなかったのだろう、妙に胸を打たれてしまって、「俺ってもしかして、とても出来が悪いのかもしれない」という推測が、身の丈を遥かに越える大きな荷物を下ろすきっかけになったわけである。

ワードローブに上着は何着ある?パンツは何本あって、そのうち夏用は何本?靴は何足?次にクリーニングに出す服はどれとどれ?
管理し切れなくなっているもの、どこにしまったかわからないもの、重複して買ってしまったものがあるとして、多分、多分だけどその一、二着が、私の服に関するスケールの臨界点にあるもので、多分その容量を拡張するには才能と努力が必要だ。
初めてアルバイトで稼いだお金を銀行口座から下ろすとき、たったの数万円でも胸が打ち震えたわけだが、今もその金銭感覚であれば、大きな額の金が動く仕事には残念ながら就けないだろうし、誰も養ってはいけない。誰も守れない。でも多分、悪い事じゃない。

出来が悪いからできないことがある。
ただそれだけの話なのに、なんだかみんな小綺麗になっちゃって、鏡の中に足りてないものがやたら目につく。

永遠は、わからない。
明日の天気もギリギリまでわからない。
身長180cmの人が見ている世界は竹馬にでも乗らない限りわからないし、誰かが夜通し泣いていたとしてもその理由はわからない。
でも多分、悪い事じゃない。