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清潔なベッドの上、街灯を孕んで肥大化した色とりどりの雨粒が宿る窓辺、想像しうる中で最低最悪な夢を見た。
希望を打ち砕く者。彼らは謀り事に長けた存在ではない。
おそろしいほど単純に、私が持っている投網よりも大きいものを持っていて、同じ海に暮す、私に似ている生き物である。

憎しみの付け入る隙の全くない営み。祝福に満ちた一日。
そういったものの渦中、渦の中心に自分がいる、という状況を想像することができない。ナイフを隠し持った男(彼らは得てして、旧来からの友人の面をしている)が上座の私に向けてそれを突き立てる可能性…可能性というより、そういう余地をなるべく残したい。何言ってんだろ、わかんないよね。もう少し説明します。

『ペイ・フォワード』という映画がある。善行、施しを受けたら、その恩返しを、与えてくれた当人でなく別の誰かへと行い、善行のバトンを次へ次へと回していく少年が主人公の映画だ。
面倒だからあらすじは省くけど、最後主人公はね、いじめっ子の逆恨みで後ろから刺されて死ぬ。
クソみたいなストーリーだ。
違うだろ、主人公を刺し殺すのは、いじめっ子から主人公に助けられた、当のいじめられっ子であるべきだろ。
始めて映画を見たのが中1…だったかな、それから今日まで、実に20年間、そう思ってきてる。
異常かもしれない。
だけど惨めな状況を助け出されることで、自分が惨めであるという事実を改めて突き付けられて(彼の心の中に、いじめられている事を認めたくはない気持ちがなかったと、どうしていえる?)、そして自分が惨めであることを白日の下にさらけ出すことで賞賛を浴びている主人公に対して、いじめられっ子が持つであろう非常に複雑な葛藤を、どうしてなかった事にしてモブキャラの枠に押し込めることができようか?

主人公は背中にナイフを深々と突き立てられ、傷口から鼻から目から、だらだらと血と涙と汗を流してフーフー肩で息をしながらのたうち回って死ぬ。「こうなることは分かってたよ」なんて顔はさせない。人は想像しうる最期をはるかに超えた嫌な死に方をする。いじめられっ子は手にしたナイフを乱雑にグラウンドに捨て、「いただきもののお返しは、当人にした方がいいよね」といって踵を返すんだ。ゾクゾクするぜ。身体だけでなく思想まで、完膚なきまでに主人公を否定して去っていくんだ。

原作も映画も間違ってる、という、いささか乱暴な主張ですけど、まあ間違ってるだろ。
人の心の機微をもっともっと正確にくみ取れば、一つの感情だけが支配的な場所ってのは危険だし気持ち悪い。
その薄気味悪さを皆が共有できていればこそ、例えば結婚式みたいなハレの場所ってのが、より祝福に値する素晴らしい場所になると思うんだけどな。
生まれ変わったら、結婚式やってみたかったな。