6/29

時折話にあげることがある、『本気』という漫画で、「『身が引き裂かれる』って言葉、きっと女の人が作った言葉よ」という台詞があり、時折思い出すことがある。(あんまり関係ないけど『本気』は50巻全部読んだ方がいいです)

もし仮に、それが真実であったとして…つまり、不特定多数の言葉の成り立ちにおいて両性(さいきんは色々と細分化されてますけど、ばっさり割愛する)のどちらかが作ったという事実が色濃く残っている場合、今話しているこの言葉たちが、どうしても過去からの、またはどちらか片方の性からの借り物を用いて、意思のアウトラインを人に伝えている(または文章という形にして整えている)に過ぎない、ということになる。またはそう感じられる。何言ってるかわかる?
たとえば「やいば」という言葉を、カックイイ!としてそのまま用いる人がいたり、「かたな」と言い換えたほうがしっくりくる人、「けん」と言う方が具合がいい人がいて、もしかしたら全部しっくりこない、実は「ふにゃあへ」と表現した方が、彼の(または彼女の)言語世界の中で「やいば」に感じている「やいば」性を正確に表現できていると思っている人、色々いるでしょう、という話です。まだ何言ってるかわかんない?

FF7R(ゲームです)のプレイ動画を見たときに一番違和感を感じたのが、ダブルヒロインであるティファもエアリスも、言動のリアリティとして「男性目線から見た女性」というか…月の表側、それもごくごく一部しか表現することができておらず、前世紀にリリースされたPS版はグラフィックの稚拙さも相まってフィクションであることが簡単に感じられるため、気にならなかったのだが、PS5版だとグラフィックが綺麗な分、その作られた人格の稚拙な女性性が際立って感じられて、なんだか非常にがっかりした。そしてこの稚拙な人間もどきの愛憎劇を鼻で笑いつつプロレスを観るような心地で視聴する余裕のない、人格形成の途上にあるティーンにとって、これらゲームの影響を相対化するための「毒抜き」にかかる時間は、私がティーンであったころとは比較にならないくらい膨大なのだろうな、などと考える。

さて本題です。サバルタン的な話です。
日本語話者で、その他の言語を操ることができない人は、考え事をする際は日本語で考えるはずです。相対的に、一番のびのびと思考の網の目を広げられるのが日本語であるはず。
だけどその思考の助けとなる言語が、網の目の広げ方の傾向が、決してあなたや私を理解しようとはしてくれない人や、または理解の手の行き届かない片側一方の性の手になるものであったとしたら、私たちはどのようにして私たち自身のこころを拾い上げることができるのだろうか。

勘違いしないでいただきたいのだが、フェミニズム的な話じゃないです。
女性に歌わせている、男性の手になる歌詞や、私が今まで触れてきたフィクションの中で描かれる女性に対して、私が「不気味の谷」に近い場所に落っこちちゃってる。ここはキモイので抜け出したい。それだけ。
だけど不思議なことに、テキスト上に女性性を見出せた経験が、私には乏しい。「子供の送り迎え」とか、パートナーの名前が男性だから、とか、着ている服の名称で女性だと思うことがあっても(今あげた点だけでも、男性の私が女性に対していかに偏狭なとらえ方をしているかが見て取れますわね)、文章そのものに女性性を見出したことはない。逆に、男性性もそうなのかもしれないけれどね。

テキスト上の女性に恋をしてみたい。でもそれを成立させるには、日本語は男性に寄りすぎているのかもしれない。
原典に当たりたい。たぶん、現代がいちばん、膨大な量のテキストに当たることができているせいで、質の如何問わず、ありとあらゆるロールモデルをインストールしやすくなっていて、それがゆえにアプリオリに近い女性性は可視化しにくくなっているのかもしれない。
アプリオリに近い女性性なんかねえよ、が、現代の定説なのかもしれないけど、俺はそこは明確に抗いたい気持ちもある。
ブルースのマナーを学ぶ際に、ロバート・ジョンソンやサン・ハウスなどの戦前のブルースマンの演奏に当たる人は多いと思う。あんまり詳しくないからめったなことは言えないけれど、それ以後のブルースマンの演奏となると、同時代に発展していった他の音楽の影響を取り入れてしまって、妙な跳躍進行やエレキギターだからこそできるフレーズが、ブルースを学ぶ上でのノイズとなってしまう可能性があるのだろう。
というわけで、私は『現代語訳・紫式部日記』というものを買ってきました。日本最古級の女流作家です。
はたして、彼女の文章に私は女性性というものを見出させるのだろうか。
それとも、テキストによって表現される性別などというものは幻想なのだろうか。
どきどきである。