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「そういえばちっちゃい頃って、ニュースキャスターが人の死んだことを伝えるのに、どうして泣いてないのか、知り合いでもない人の死を伝えるのか、ぶり疑問だったっちゃね」
手足伸び切った今となっては、自分が過去にどんな考えを持っていたか、その遺構は残っているものの、どうしてそう考えていたのか、一体幼いころの私は何を持っていて、何を持っていなかったのか、まるで分らず、どうやって作ったのかまるで分らない、三仏寺の投入堂みたいな遺構を眺める心地である。

考え方だけならまだしも、振る舞いや実際人様に向けた言動なんかも、どうしてそうしたのか?を斟酌し、当時の足跡をたどるという試みは不可能に近い。不可解さはもはや他人に抱くそれと同じ。自分の歴史の中の中心人物に、限りなく他者性を感じるわけで、居心地が悪い。
この場合、間違っている…または、是正した方が健全であるのは、私の自我や歴史に関する認識なのだろうか。つまり、現時点の自我を敷衍させて、過去の一時点の自分という人格までひっくるめて「自分である」と考えること自体が、なんていうか、しんどい考え方なのかもしれない。

でも人は簡単に、他人に対して「変わったね」とか「昔と変わらず接してくれてありがとう」みたいな定性的な価値判断を投げてよこす。他人の、過去のいつぞやの振る舞いと同じ、または違う振る舞いに対して、なにかを思う。
「今日は楽しかった」私はその言葉を聞いてもちっとも嬉しくない。嬉しくない。
嬉しくない、のだ、が。

中学校の頃、私は一目ぼれした女の子に、廊下ですれ違うそのたびごとに、小さく手を振ってもらえるという、幸せな時期があった。飛び跳ねたくなるほどに嬉しいはずだが、私の心を訪れた感情は、確実にこのささやかでかわいらしい習慣が、いつか終わりを迎えてしまうという確信と、それを嘆き悲しむ気持ち、であった。
困ったことに、価値判断というものには返しがついていて、一度投げられると引っこ抜けない上に、過去と同じ状況、同じ営みにおいて再び同じ言葉を投げかけてもらえなかったときに、人に何かしらの感情を惹き起こす。私の場合はそれが不安の感情で、嬉しくない言葉であるはずの安易な価値判断が、再び投与されないと禁断症状を招く。
私にはそれが耐えられない。

果たして私は、投げかけられた小さな価値判断とその返しに、痛い痛いと嘆いて逃げ回った(または、もっと大きな見返りを求めて痛い目にあった)わけだが、人はどうしてるのだろう?

あなたには、あの返しが、何に見えて、どんな風にそれと向き合えているのだろう?