ライブに久々に足を運んだ。あれ、そうでもないか。
ここに、ひとりの人間がいると想像する、別に人間じゃなくてもいい、猫でもキャッサバでも良い。
その存在に、あなたは惜しみない愛を注いでいるとして、どのような行動で以て彼(彼女、またはそれ)にコミットするのか。
これはラブソング、または愛の詩を描き出す練習である。定時刻に起きて歯を磨き、電車に揺られる間仕事の段取りを組み立てるのとはまた別の脳みそを働かせる必要がある。
たまーに机に向かってこの練習に取り組むわけだが、私の空想の中のステディが大したところに連れて行って貰えていないのは、私がろくすっぽデートの予定を組み立てられず、機転も効かずウィンタースポーツも嗜まず好きなレジャーも持たず、面白がらせるようなゲームを考えるセンスに乏しく、人を飲みに誘うことも誰かの口利きもせず、沈香も焚かず屁もひらず…という朴念仁だからであり、もしもノートの上の恋人が夜空の星々を引き連れた最終列車の食堂で私とチークダンスを踊り明かして誰も知らないコーラルピンクに染まる静かな海を目指すような事があれば、現実の連れ合いである家族が可哀想である。
何が言いたいのか。つまり現実を越えた想像力の刃を研ぐ必要は、あんまりないんじゃないかな、ということである。
なにかを表現して伝える技術が、現実の痛みを遥かに超える瞬間がやってくる。もうやってきてる?
私の歌が一向に上手くならず、ギターも下手くそで構成の妙に乏しいのは、供物として捧げた私の傷跡には、痛みがほとんど残っていないからである。
平和であるのなら、それでいいんじゃないかな。