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米津玄師がインスタに投稿した画像の意味を知らず、調べることはせず(調べたのかもしれないが解にたどり着けなかったのだろう)、画像をありあわせの感受性で何とか読み解こうとするファンをあげつらって嗤う、という出来事が、私の知る限り二回ほどネット上で起きた。
この前まで私は、そのやりとりを見てクスッと笑ったのち、双方のディスコミュニケーションぷりを哀れに感じていたわけだが、もうやめることにする。なんだか悲しくなってきたからだ。
何に悲しくなったか?いろいろあるよ。
第一段階として、母の顔が浮かんだ。別に彼女は米津ファンではないが、マインスイーパもアメフトも知らない。
単純に世代の問題に集約させることもできるが、『Windows ’95』が世に出たころ、私の子育てや日々の家事・パートの仕事に追われていた母がマインスイーパを知ることなく今日を迎えたことに関して、私に嘲笑の意志が芽生えたとしたらとんでもない人でなしであろう。

第二段階、生まれ故郷の友人たちの顔が浮かんだ。私の住んでいた(現在も住んでいる)地域には、初めて所有したPCはスマートフォンである、という人が少なからずいる(どこもそうなのかもしれないが比較材料を持たない)。どういうことかというと、親兄弟がパソコンを所有せず、仕事でパソコンを使うこともない職業に就く人が周りにいた、ということだが、彼らは多感な学生時代にインターネット上に横溢していたMADに触れて時間を溶かすこともCSの番組に触れることもなかったので、私は彼らとの会話においてそれらを持ち出すことはなかった。
彼らがマインスイーパもアメフトも知らないとすれば、それは環境に起因する結果であって、彼らを嗤う理由にはならない。

大学に入って初めて、それらの文化資本(そう呼んでよいものか甚だ疑問ではある)を共有できる人と出会ったわけだが、それがなんだというのだろう。バックグラウンドが類似していることは、人間関係の円熟の可能性を保証しない。全く保証しない。

追いつかない語彙でアニメの魅力を語っていた友人がいた。大好きな庭師の仕事に関して、その展望を語る友人がいた。御茶ノ水の楽器店で「ゆずが好きです」と店員に熱心に話し、貯めた金でギブソンのJ-160Eを買い求めた友人がいた。
嘲笑の対象となる恐れを可能な限り回避して生きている自分みたいな生き物は本当に、つまらないなと感じる。
マインスイーパのスクリーンショットから必死に、何かを読み解いて、米津玄師を理解しようと足掻く人々の方が、よっぽど情熱をもって、何かに餓え解決しようともがいてる。あと米津氏に金も落としてる。ここ重要。
ラブソングを作ってみている。誰かの涙を誘うような直截な表現をする度胸がない私に、ほとほと呆れてしまう。