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今日は一日頭が重く、朝起きてからしばらくぼんやり。昼を食べることなく眠りにつき、夕方、何も成し遂げていない身体にはあまりに残酷なトーンで窓辺に迫る西日を目にし、仕方なしに読書に耽る。しかし腰が痛い。
何をするにしても妨げとなるものはこの身体から生まれてくる。非常に厄介だが、何度か過去に繰り返し書いているように身体の喜び以外の代物を私は知らない。
これは別に性愛的な話に終始するわけではなく、例えば分からなかった難問が解けた喜びも身体が感じ、弾けるようになったフレーズに恍惚とするのも身体が担い、今までに感じたことのない風味をコーヒーカップの中に見出すのも体が取り持っている。
私とは私の身体のことである。それは本当だろうか?
疑問を挟む格好はできるが、疑問を挟む余地が見いだせない。

『ソフィー』という楽曲を練習している。私には恐ろしくて真似ができないほどの、非常にありふれたコード進行で始まる楽曲で、うまく歌の雰囲気を捉えることができれば良いのだが、そこがなかなかに骨が折れる。
人の拵えた歌詞に、作詞者と同じ程度のニュアンスをうまく込められたのであれば、もう少し聴いている側にも奥行きを感じさせる演奏を披露できるのかもしれないけれど、どうにも「罪」という単語に手が止まってしまう。
「罪」と呼ばれる行いに、無縁な生活を送ってきたのだろうか?
いやそんなことはない。私はキリストに石を投げられるような気はしない。
しかし、「洗い流す」と歌うほど、身体にこびりついた何かがあるわけでもなく、そしてそれを、こびりついてもいないそれを手放すわけにもいかないと感じてもいる。
…などと、一言一句、違和感を覚える点に都度メスを入れて腹を割いてみると、自らの傲慢さに出会ってしまったり、咽び泣いている自分を見つけ出したり、いろいろな事が起こる。
そして今日は、なんとなくガスファンヒータに酔ってしまって、頭を使いたくない、身体を動かすのも少し億劫に感じている自分がいて、きっと「罪」という単語に引っかかっているのも、体調が思わしくない事に端を発しているのだろう。
風呂に入って、身体を温めてから再び臨んでみることにする