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『小さいジャスコに行きたい』と彼女が歌う時、その叫びが指し示すであろう物事に頭を何度も頷かせた。ロックバンドが歩まされる歴史はその初めから敗北の歴史で、もしくは選曲を任された蓄音機としてドサ周りを繰り返す興業楽団としての道しか残されていない。
何に挑んだのか、何に負けたのかを知らされることはないが、システムは完璧に機能して、どんなこぼれ球も金に替えてくれる。
暮らしぶりは安心だが、眼下には見覚えのない海が見える。

『チェンソーマン』を読んだ。あらかじめ組み上げられた巨大なシステム自体に物申してメスを投じていく主人公というものは令和の世に描かれることは無い。彼らにとって社会は所与のものであり、突き動かし難いものである。
どうせ動かないのであれば、「それ」が存在していないのも存在しているのも、大した違いはなかろう。
そういう理屈で、新しい重力を足枷にして躍動する主人公の姿は観ていて小気味がよく、憐れんだ目を彼らに向けそうになる中年男性たる私は退場勧告待ったなし。
子供は子供なりに精一杯遊んでいるのである。
防波堤の上で遊ぶ子供…「かつてここからは綺麗な海が一望できたのに」などと昔語りをする老夫は、お呼びがかかるまで土間で草鞋を編んでいればいいのだ。

とはいえ、防波堤の上で遊んでいた青年たちもやがては年老いて、ここが自分の居場所では無いことに気づき始める。手にしていた馴染みの玩具を、物欲しそうに眺める少年や、場所を開けてもらいたくて恨めしそうな目を投げかける子らがぽつぽつ現れるだろう。
「若さ」はかつて、あらゆる物事を選択する上で、全てを肯定する免罪符であった。
その紋所が手許にないことに、数年かけて気がついて、さて私はどんな歩みを見せるべきなのか?

『小さいジャスコに行きたい』彼女のあの叫びに心のカドを洗い落とされて救われた心地のした人は、私だけでなく何百何千人といたであろう。
しかしその叫びは傷を縫う針でも包帯でもなく、糜爛していつまでも膿を垂れ流す同じ傷でしかない。