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いつかは私のすべてが(みじめな)おじさんの道楽として人々に理解されてしまうのだろうか。

だらしなく、大学を何度か留年している。学生最後の年、溜まり場にしていたファミレスにふらっと立ち寄った時、サークルの現役生の集まりに出くわして、…なにがあったわけでもないのだが、「もうここに来てはいけない」と強く思ったことを記憶している。
年を重ねたら、元いた場所にいては下の世代の迷惑になる。あまり年功序列を気にしたことはないけれど、順番がある、という気がした。

マッカーサー的な価値観、と仮に呼ぶけれど、この、老いては若者に席を譲って去る価値観が時折私の頭をよぎることがあり、その度に葛藤に苛まれたり(とはいえファミレス以外に開いててタバコ吸える店ないぜ…?)、大多数の人間が得る経験を逃したり(高校でひとしきり遊んだから大学生になって、また遊ぶことないでしょう、という勘違いをしていた)、した。
どうも、席を譲って去るまではかっこいいのだが、その後のことを何も考えていないのが災いしているようである。

私たちの多くはモノに拘りをみせる。このスニーカーはいつぞやの限定のエアマックスだ、このバブアーはファブリックが変わる前のものだよ、メイドインUSAのフェンダーだ、カールツァイスのレンズだ、エトセトラ、エトセトラ。
それらがこだわりとして人々に受け入れられる年齢は、ある日終わりを迎えて、おじさんの道楽として人々に受け入れられる(半ば疎まれる)時が来る。確実に来る。それを異常なまでに私はいま、恐れている。

もうモノを手に入れても、手に入れた経緯にまつわるエピソードに、他人から好ましく感じてもらえるものが無くなる年齢というものがある。確実にある。
現に私は父の持っているあらゆるモノに関して、なんの感慨も憧れも湧きはしなかった。早く捨ててしまえばいいのに、としか思わない。
おじさんという生き物は、世界中から興味を失われた瞬間、この世に爆誕する生き物である。
そして今、おじさんに、死に近付きつつあるわたしは、この世から興味を持ってもらえなくなる瞬間を想像して恐れ慄いている。

ここまで書いてみて思ったが、単に私が、私の興味をそそらない人間を「おじさん」と呼び下しているだけではないのか、とも考えられる。しかし、私の世界では私が「おじさん」と思った生き物は間違いなく「おじさん」である。他の誰がどう思うのか、など全く問題ではない。問題ではないのだよ。

もし仮に、偶然、ある一時点で、世界中のすべての生命体が、ある人物を見て、なんの興味も抱かなかったとしたら…なんと悲しいことだろう。世界中の生命体にとって、彼は「おじさん」だということである。彼自身が、自分に若々しい気概を感じていたとしても、である。

よく反論として、「自分が良ければそれでいいじゃないか」といった言葉を放つ人がいる。
だが、この言葉には隠れた下の句があるだろう。
「自分がよければそれでいいじゃないか、いつか、誰かが理解してくれるから」と続く下の句があんたには見えるか?
つまり肝心なのは、この世の全ての生命体から理解してもらわなくてもかまわない、という事を上記の言葉は意味しておらず、時間の経過を経て理解してくれる人間が現れることを期待しているにすぎないのではないか、という点である。あくまで私の意見だぞ。

ゴッホの絵は生前全く売れなかった。再評価されたのは死後である。
そして、ここで挙げた「おじさん」の営みは、死後再評価されるような特異な営みではなく、凡庸で代わりなどいくらでも見つかるような営みなのではなかろうか。

私はコードを異常に恐れる。コードに則った営みを、凡庸な物言いを、クソみたいな相槌が漏れ出る自らの口を異常に忌み嫌う。
興味を持ってもらえなくなるのが怖い。
ただひたすらに怖い。
だけど悲しいことに、あなたに興味を持つこともできない。
それは、ごめん、ごめんけど俺のせいじゃない。あなたのせいだ。