12/10

みんな同時に、なんていうベクトルがあんまり良くないんじゃないかなー。

ホテルの宴会を担う職場にいたことがある(『ファイトクラブ』のブラピよりはまじめに働いていた)。大人数が、一つの場所に一斉に集まり、同時に盃を空けようなんてするから、人員はやたらに必要だし、バックヤードは誰かの怒号に満たされているし、一種の戦場のような雰囲気に慣れるまでは、緊張の糸がほぐれることはなかった。いい経験だと思っていたけれど、よくないめんもあるんではないかと思うことがある。「同時に」を、遂行しようとする点である。同時を目指すと、ズレや遅延が目につくようになるからだ。

バンドにおいて、ギターとベース、ドラム、キーボードが「同時に」音を鳴らす表現はたまにあり、それはどちらかといえば聴く側に緊張感を与える。その表現が長くは続かないことは聴衆も心得ていて、その後に個々の楽器が持ち場に戻ったかのように流暢なプレイを見せる際に、一気に緩和の感覚が訪れて、聴衆は安堵したりリズムに身体を揺らしたりする。
あ、これは言いたいことと全然関係なかった。

誰かになにかを訪ねる。期待通りの答えが返ってこないことがある(大体がそうである)。しかし、回答者と私との間にある程度の関係が築けていたとしたら、その期待とは異なる回答について質問を重ねたり、意図を再度説明して、もう一度同じ質問を繰り返す事も、茶化して水に流す事もできる。
この関係が築けていない場合、得意げな語りを見せる回答者と、落胆を悟られぬように微笑む質問者との構図が出来上がり、傍目にわからなくても、そのディスコミュニケーションの無惨さには目を覆いたくなる。

でも多分、たとえ質問者と回答者の仲がそれほどに円熟していなかったとしても、質問者が落胆せずに会話を続けるために必要なものがひとつあって、…いや、不必要なものがひとつあって、それは「時間の制約」であるような気がする。
もしもお互いに、「次の予定」と呼ばれるものが永久に訪れない存在だとしたら、どうだろうか。質問者は手を変え、回答者は勘違いを詫び、ふたたび会話が始まる。
あいにくそんな世界を生きていないので、想像することしかできない。海外旅行でドミトリーの部屋に泊まった際に、下のベッドの人間と意気投合する感覚なのだろうか。ありあまる時間と環境の変化がもたらす少しの寂しさ…または、異国の地で言葉を発する機会が極端に損なわれ、長く自省することでその存在に気づく生来の寂しさから、相手の話にゆっくりと腰を据えて耳を傾ける感覚。

全然関係ないかもしれないけれど、海外旅行の良さって、その日程の前後2〜3日も、フワッとした捉えどころのない、どう使っても構わない緩やかなソフトランディングの時間が身体に訪れる点だと思う…全然メインディッシュとして人は捉えてくれないけれど、私にとっては十分にごちそうで、あの時間だけくすねて、国内のどこか、誰も行き先をあずかり知らない町で、ひっそりと散歩でもしていたいと思う。

「みんな同時に」つまり時間の制約。これが私たちを不自由にしているし、その不自由さを欲する場面と、欲さない場面と、あるよね(朝目が覚めて、夜書いた手紙の文面を見て赤面するような心地が私に訪れている)。