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人に何かを相談することは難しい。
一般論に収束させられて、がっかりしたくないからだ。
「なんでも話してくれ」と人は言う。
がっかりしたくないので話したくないよ、とは言えないので、話さない事で時間を置いて人をがっかりさせる事にしたりする。

どうして、人と会話を続けることで、「この人に底の浅い人間だと露呈してしまうことになるかもしれない」と考えないのだろうか?と、お喋りな家族を見て思うことがあった。私の父は寡黙だった。だがその少ない言葉で、私を失望させることは多々あった。そして私もそうであろう。

ただ私のこの考えにも、決定的に欠落している観点があるように思う。
でないと、人がこんなにも私とコミュニケーションを取ろうとしてくれ、請負仕事だけで食いつなぐ今の生活が、こんなに続くはずがないだろう。

私も言外に、沈黙で語っている何かがあって、それが人の心をつなぎ止めているのかもしれない。
私の沈黙が誰かの心を助けているのかもしれない。
または、会話の内容なんてものは全く気にしておらず、投げたボールが、球速や軌道はどうであれ、ちゃんと帰ってくることにのみ喜びを覚える人が存在しているのかもしれない。
あるいは、受け答え一つを、それを発した個人と強く結びつけて、ある一時点の言語を、恒久的な個人の資質だと断じてしまう側面が私にあるだけで、たいていの人は言葉尻をいつまでも頭に留めていたりしないのかもしれない。

わからない事が多い。
誰かの話を聞き入れる技術が底をついたような思いがしているので、ここに来てわたしは師を得ようと思います
いや、コーヒー豆全然関係ないやん、というお叱りの声が聞こえてきそうなんですけど、やっぱり人間は会いたい人から何かを買いたい生き物だと思うんです。
仕組みや値段、ラインナップ、サービスの豊富さでは大手さんに敵いませんから、私は私個人という、非常に有機的で不安定な要素を全面に押し出すことで人の心に届けたい気持ちがあるのです。

それに、商売より遥か手前の人間性という点で、私は人にがっかりしたくない。
私を好いてくれる誰しものことを、好きでありたいけれど、決定的に私に欠落している感性が、それを阻んでいるように思うのです。
さて頑張ろう。今回の企みは、さすがに出目に興味がある。