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globeを聴いてみた。そういえば昔の恋人が好きだったことを思い出して、聴いてみようと思い立った。
普通に映像を抜きにして楽曲を聴いている分には、メロディラインの繊細な…時に際どい点や叙情的な歌詞、サウンドを楽しめていたのだけれど、その観客の熱狂ぶりや、演者の有頂天な立ち姿、ステージ上手側の方の存在意義の不明瞭さ、さまざまな情報に対する私の理解が足りていない、そんな印象を得た。

で、wikipediaに飛んでみたわけだが、やはり編集可能なメディアだけあって、小室ファミリーに対する造詣が深く思い入れの強いファンの1人が記したのであろうその文章は、通底してなにかの前提知識を持っていないと到底理解に及ぶことのできない、私を取り残したものであった。なにがわからなかったんだ?そう聞かれても困る。無意識のうちに前提としている知識があり、それを他者と共有できていない場合、どれがその解決の糸口となるかを探る能力は、globeに対しての知識と比例するわけではないだろう。
私は肩を落としてブラウザを閉じた。

ものすごく売れたモンスターユニットであることは分かった。ファミリー内のいざこざがあったのであろうということは、なんとなくwikiに記されていた。ボーカルの方と小室哲哉が婚姻関係にあったことや、たびたび女性問題が散見されたこともわかった。
私は何が知りたかったのだろう。なんの前提知識も持たずに、音楽だけを聴いていられればよっぽど良かったのだが、前提知識なく聴いて楽しめるほどの良さは感じない。音楽を傾聴する気持ちを盛り上げるべく開いたラップトップでは、それ以外のお家騒動にまつわるものや賛美以外の選択の余地を持たない文面、もう少し、落ち着いたものがほしい。

文脈とはなんだろうか。
「あの人は昔、実はこのバンドに所属してて…」
「こういう付き合いがあるから、この人のバックバンドにはあの人が参加してて…」
「昔の音楽性を踏まえて聴くと、より一層今の彼の歌が沁みるんだよ』
そういった話を私は夢中になって聞いてはいる反面、イベントの企画者としてお客さんを呼ぶ立場の人間として、まったく必要じゃない情報だなーと思ったりもしている。
一聴して素晴らしいもの、それは残念ながら、最大公約数的な音楽に収束してしまったり、再生するフォーマット(例えば、ラジオ、tik tok、インスタのリール等)に最適化されたものであることがほとんどであり、しかし私はどうしても誰しもの心を掴んで離さないような素晴らしい歌心のようなものを彼らミュージシャンに期待してしまっている。
そしてその楽曲は、音楽を聴くだけで演奏しようとはつゆほども思わない大勢の方の心に、正解なんてナンセンスな概念をかなぐり捨てた、伸び伸びとした意見や印象を与えてくれるような気がする。

息子はテニスのレコードを再生すると、何曲か気に入って口ずさんでくれる。
その光景を持ってして、音楽とはこうであるべき、とドミナントな意見を提示する気はない。
ただ、音楽とは遠く離れた所のあれやこれやの事情が、良くも悪くも、文脈として音楽の試聴に欠かせない要素として引っ付いてしまった人達は、世代の移り変わりと一緒に退場してもらえた方が、私としては心穏やかである。