「狂気の桜」で須藤元気がベッドの上、腰から下が動かなくなっているのはサラリーマンのメタファーだなーと思っている。という話を誰彼構わず事あるごとに言って回っている気がする。そんなことない?
何を暗喩しているか。それは、言責を負わない法人格に使役されて変形して奇形となっていくさま。である。
過労で倒れたり外回りで足が浮腫んだり、視力が低下したり、デスクワークで腰を壊したり、と言ったところは変形の典型として分かりやすい帰結だが、友人や家族に合理的で論理的な言説を求めたり、回収可能性で子供の習い事を決める…と言った発想も(もしあるとすれば)、それは法人格に使役されるサラリーマンの身に起こった変形の一側面だなーと感じる。
一方で、狂ったように何かを探究することに手放しで憧れており、常にそうあろうと欲する心がある。自発的な狂の精神でも人は簡単に、上に挙げたような変形を遂げる。そういった変形が私自身に起きることを、私は歓迎する。左手の竹刀ダコを指でさする。
と、口で言うのは容易いが、変形の要請(いや、変形は結果であって目的ではないか)が外からやってきた時の、身体や心が感じる不快感というものが、いつもいつも邪魔である。邪魔をしてくる。私を現状の形に留めようとする。
しかしこの不快感は乗り越えられる。乗り越えた経験があるから、それがわかる。私の身体や精神など、どうとでもなれ。
問題はこの、変形の要請を他者に出す難しさである。一人で抱え込んで悦に入るフェーズは終わった。助けて、と言える大人にならなければならない。
私は家族を養いたい。まずはそこ。いや、それだけに余生を費やすことになるかもしれない。それでも構わない。構わないと、腹の底から考えられる変形を遂げる。
タイムリミットを設ける。あと3年。私は私の人生だけを生きて、その先で家族を幸せにしたい。