9/6

「あの人は何年も何年も、たった1人で歯を磨いてるんだってさ。信じられる?」

曲芸使いが、サーカスの胴元の仲介を経ることなく人々に訴えかけることができるわけです、こんにち。すごい角度からボール投げてゴールに入れたり、してますよね彼ら。
「芸は身を助く」というけれど、「芸が身を助けるほどの不仕合せ」という言葉もあり、液晶の向こうにいる曲芸師たちがどんな孤独と向き合って技を磨いたのか、想像するのは有意義だし、彼らの所作を娯楽として見ているだけに留めることができる人、人に見られずに収入を得られる人はやっぱり幸せだと思う。

「なに見てんだよ」
「いえ、すみません、友達に似てるなーと思って勘違いしてて…」
私の生まれた町はヤンキーみたいな人が多くて、中高生の私は、彼らの逆鱗に触れないようにするべく「沈黙が金であること」「過剰に目立つことを避けること」「分不相応な服を着ないこと」を、言語化されなくとも彼らの言動から学んでいたように思う。
怖くてしょうがなかった彼らの存在を、大人になってだいぶ回るようになってきた舌(舌同様の速度でもってタイプする指)で再定義し直すと、もうただただ、あらゆる物事に繊細に反応する気恥ずかしさと、それを去なす術に思い当たらない事による葛藤や苛立ち、気恥ずかしさを包み隠すための暴力、を見出すことができる、気がする。
言語化はできなくても、彼らは「見られる」という行いに伴う、見るものと見られるものとの間に存在する深い深い河、宿命かのような不等号が現前と存在することを感じていたのだろうか。

こういう繊細さって、もんのすごく雑な括り方をしてしまうと、経済的な勢いのない、メインストリームから外れてしまった娯楽に興じる界隈の人たちは結構持ち合わせている。気がする。
すごく大人しくて他人と目も合わせられないけれど、断片的な拘りを数多く持っていて、しかしそれをうまく言語化して自己と拘りを切り離すことができない人を見るたび、私はハイティーンの頃に恐れていたヤンキーの事を思い出したりする。

10年くらい前から、私が「ヤンキー的だな」と感じる人と、アニメオタク的な人々との明確な境界線が曖昧になって来ているような気がするのは、本質的に彼らが近似した感性や孤独を抱えているからなのだろうか。しらんけど。

しまった。観察してすみません。