「ネタバレ」という行為を忌避する、厳しく非難する風潮って一時より強くなってませんか?
おじさんみたいなこと言ってすみません。
例えば『鏡子の家』を読んでいる途中の人に、「出入りする青年たちはみんな死んだりおかしなことになるよ」と伝えたり、『坑夫』を読んでいる人に「主人公は最後家に帰るよ」と伝えても、結果に至る過程の描写にこそ面白みがあるので特に非難されないように思う。
でも、これは別に読んでいる人の懐が深いとかネタバレに関心がないとか、そういう話ではない。
読み物や映像作品に求められる性質が変わってきていて、帰結される結果というものがどれだけ人を驚かせるか、という点にものすごく重きが置かれ、そこから遡るような形で過程のディテールが重要視されるようになってきただけなのだろう。
ふだんネタバレなんか気にも留めない私も、かつて『東京大学物語』を読んでいた時に友人が「この漫画は夢オチだよ」と言ってきたとき、ものすごい憤慨したことあるし。
激怒して悪態の限りを尽くして罵り、ブックオフに今まで買っていたそれらを売り飛ばし、多分半年くらい彼とは口を利かなかった気がする(「東京大学物語」こそ、過程を楽しむ漫画だろう、という突っ込みはなしでお願いします)。多分、作品の性質によるのだ。
魔女狩り以降の、「人々が普段どんなことを考えているのかを知りたい」という欲望を満たす、伊丹十三氏の言葉を借りれば「覗き趣味」的な欲望を満たすものとしての小説、という意味合いは、小説の世界だけにしか存在せず、漫画や映像作品には通用しないのかもしれない。
連載している漫画を、続刊が出るたび、連載している媒体の次号が出るたび読み続けたり、アニメをリアタイで視聴したりする楽しみ方に慣れている人にとっては、「いまだ解決されていない謎」が少しずつ、すこしずつそのヴェールを剝がされていく過程を楽しんだり、見過ごしてしまいそうなディテールをひとつずつ拾い上げて、独自の「考察」を語ってみたり、という楽しみがあるんだろう。
そこには、時間芸術的な色彩もあるというか…続編が出るまで待ち遠しく過ごす時間も、作品の質を変化させる要因の一つとなっているような気がしている。
昔、「その年だと、悟空がナメック星に到着するまで待ってた記憶なんかもないんでしょ?」と言われたことがある。確かにない。めちゃくちゃ引っ張ってたみたいですね。
しかし、ナメック星到着まで30分、という時間を数か月にわたって引き延ばされても、ブラウン管の前でまんじりともせずその様を見守っていた少年少女たちの抱く思い出を、私は確かに持ち合わせていないし、もう得ることも難しい。
なにが言いたかったか忘れた。
なんとなく、ネタバレを回避したり忌避したりしてリアタイ視聴を楽しむ心境ってのは、私が映画のオープニングシーン「だけ」がやたら好きなのと似ているのだろうか。
スタッフの名前が差しはさまれながらカメラが物語の舞台へとゆっくり降りていき、最後にタイトルがバンッと挿入されるシーンを見ていると、映画館のシートにもたれてボーッとして眠りさえしなければ、これから物語が始まる予感や、勝手に解き明かされるべき謎なんかを目の前に提示してくれるわけで、永遠にその謎の入り口にとどまっていたい感覚ってのがある。
健全かどうか、ってのは別にして、映像作品ていうのは非常に快適な装置になってきたなー、なんてたまに思う。