9/4

愛知県に住んでいると、付き合いでパチンコに興じる瞬間がある。別に愛知県関係ないかも。
端から、運任せの娯楽っていうものが苦手で、それはチョコボールの金のエンゼルを一度も…幼馴染は何枚も引き当てていたというのに私は一度もお目にかかることができなかった幼少期に、自分には運がないと決めてかかっていた事に起因するかもしれない。
機械に吸い込まれ、あっという間に溶けていく千円札を何枚も見送っているうち、付き合いでパチンコを打つことに辟易としていた私を見かねて、友人が「お前、ちゃんと一打一打祈ってる?」と声をかけてきて、いたく驚いた。
祈るってなんだ。ほぼ運任せの、しかも電子機器のゲームにおいて、祈るという行為がゲーム上の変数として代入されて結果に影響を及ぼすことがあるのだろうか(いま思うと、もんのすごく頭が固い考え方ですね)。

また別の友人は、急ぐことになんの躊躇もなかった。
大学時代、飲み明かして私の下宿で朝を迎えたものの、二日酔いも相まって講義の時間ギリギリに起きてしまった私と彼だが、半ばあきらめて布団から出ようともしない私に対して、彼は大急ぎでシャワーを浴び服を着替え、私を急き立てた。
私は彼に急き立てられるがままに身支度を整えようとするのだが、歯磨きや寝ぐせ直し、着替えなどのひとつひとつを簡略化して、間近に迫ったデッドラインに不格好でも間に合わせる、という行いは、普段から急ぐということに慣れていないと要領を得ない。
私はいそぎたかったが、いそぎかたが分からなかった。

ギターの早弾きってものができなかったり、歌のここぞという高音部で音を外してしまう(正確に言えばフラット…正しい音程を若干下回ってしまう)たびに、先に挙げたパチンコの祈りや、大急ぎで身支度で済ませられなかった朝のことを思い出す。
いや、もっと…あらゆる場面で思い出すな。
伝えてあげたい言葉や伝えてみたい言葉が浮かんだ時に口ごもる、ハンカチを差し出す手を半ばで止める、声の調子を間違えてあらぬ誤解を生んでしまう、もう少し踏ん張ればたくさん焙煎できるのに、諦める…エトセトラ。
今、ここ!という瞬間を掴む、断続的に掴み続ける、という行いの難しさ。
どれだけ年を重ねていっても、最終的には「頑張る」という、あんまりにも単純でにべもなく、そのくせ維持も継続も難しい行いが、残酷なまでに精緻なタッチで、生活を宿命づけていく。
もっと簡単であってくれ、人生。もーすぐにスマホに手が伸びちゃうんだもん。
さあ諦めて今日も一日頑張りましょう。