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母は熊本出身である。年に数度は熊本に帰っている。
コロナウィルスが蔓延していた頃(今も猛威を振るっているみたいですが、ここでは2、3年前、という意味でお考えください)は、なかなか熊本へ帰る機会が設けられずに悶々としていたので、坂口恭平さんの画集『pastel』を贈ったところ、いたく気に入った。
ながらく目にすることのできていない熊本の、それも馴染み深い坪井周辺の景色がそこにはかなり精密に描かれていたからである。

母にとって、氏は「故郷の絵を描いてくれる高校の後輩」であり、独立国家を設立したり、駐車場に停められる家を建てたり、浅草や多摩川河川敷のホームレスの家から建築に関する知見を深めたり、死にたいと感じた人からの電話を毎日受けて相談に乗ったり、ミュージシャンであったり、躁鬱病を患っていたり、などの文脈で母は彼を理解してはいない。
しらけ世代と、ミレニアル世代とで、関心を寄せる事柄に決定的な差がある、なんていう風に雑〜にまとめることもできるし、私は、母と私との氏に対する理解の乖離に、特段問題はないと思うし、「誤読を誘発する・容認する」こと、月並みな表現なんだけど、すごーく大事なんじゃないかなと思うわけです。

自分の事、または自分の出し物(作品や商品)を、誤読なく自分と同じくらいの解像度で理解してもらいたい、という気持ちがあると苦しい。
誰も自分に対して、そんなに時間を割いて理解に努めようとしてくれない事実を突きつけられるだけだから。
君にそんな魅力はないし、私にもない。

たとえば、「私は誰のことも理解していないし、誰も私のことを誤解なく理解してくれていない」という前提…または、「あらゆる手段を講じても、他者に対して当人と同等の理解に至る道筋は全く開かれていない(存在しない)」という前提で世界を見渡してみれば、そこに横たわっているのは大小さまざまの誤読の堆積であり、正解者はいません。
すべて不正解で構成されたその山の中から、ひとつだけ、文脈を選び取る、その手の存在を知覚する。その時初めて、自分がいかに「自らの理解したい文脈で他人を理解しようと努めているか」を痛感するし、戦争ってこの疑う心が暴れ出すことを止められないから勃発しちゃうんだろうな〜、などと、これまた誤読ありきの認識を、自分一人だけの認識を、世界に対して抱くのです。