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ブログの更新が滞りがちだったのは、アイデアの枯渇うんぬんではなく単純にBluetooth のキーボードが壊れてしまったからでは?と思い直し、新調しました。
才能も情熱も夢幻の類で、あるのはただ、創作をするのに適当な環境と持て余した暇だけ…という考え方がベースにあります。

口にした事柄っていうものは、頭をよぎった事柄のうち、ほんの1割にもみたない。その頭をよぎった事柄の4〜5割を、仮に誰かに対して口にできたとしたら、私は「口がすべったな」などと、後悔を伴って感じてしまうわけで、かといって、喋りすぎたがために私の心に訪れる独特の気だるい気持ちや、発話内容がもたらす、あまり歓迎できないドラマに対して慮って口を噤んでみると、それはそれである種の後悔が30m後方をきっちりキープしてついてくる足音のように私をつけ狙うわけで、したがって何も思いたくない。

「集団との付き合い方に対する経験が不足していて、偏りがありますね」と断じられたことがある。全然否定できない。
他人の所作を見て何かを察して行動を起こす、という振る舞いは、自分がサービスマンとして人前に出ている時、つまり金銭の授受が伴う時以外では全くできない。できないというかしたくない。
この広い世界のどこかには顔色を窺う事も窺われる事も、いずれも好きじゃない奇特な人間が存在していて、たまたま私がそういう人間だというだけの話である。
えーだって嫌じゃないですか。映画観てるのに横から「今のシーン、どう思った?ちょっと誤読してそうだったから」とか言われるの。そんなイカれたタイミングで話しかけてるつもりないよ!と人は反論するかもしれない。でもごめんね、俺はいついかなるタイミングで話しかけられても、発話内容によっては、顔色を窺ってきたイカれた奴だとあなたを看做してしまうかもしれない。

私の友人は、学校の行き帰り、東海道新幹線の高架を通りかかる時、パンタグラフが振動する音を聞きつけて私に「しっ」と伝え、会話を終えることがたびたびあった。
数秒後に訪れる新幹線の通過音が会話を阻害することは自明だったので、私たちは幾分声を張り上げて会話を続けるか、一旦やめるかせねばならない。後者を選んでくれた友人の振る舞いが好きで、好きだったのだが、数年後、当時付き合っていた彼女が都営大江戸線の喧しい車内(乗ってみればわかります。すごいうるさいんです)で、必死に声を張り上げて私に何事かを話そうとした時にものすごく嫌な気持ちになり、嬉しかった思い出からも、それを引き合いに出して嫌な感情しか想起できないなんて、私はなんと底意地の悪い人間なのだろうと呆れてしまい、結果やっぱり何も思いたくない。