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1300年待ってみても、ひとつの事象が一向に改善しなかった。とする。
俺だったら、人間の平均寿命を大きく超えてひとつの事象の変化する(しうる)さまを見つめられたことに幸福を覚えそうなものだが、穏やかな50年というものは不安な面持ちで悠久の時を過ごすことよりも掛け替えのないものなのだろうか。
でも、穏やかな50年には敗するけれど、不安な50年の人生は、それはそれで幸福だよね。
 

雷を連れてくる雲を裁くことができたとしたら、私たちは自然に焼き殺された人々を弔うため、諦念をかなぐり捨て、怒りの矛先を明確に持ち、神を信じないんだろうか。
怒りの対象物があるから怒ることができる。それはまあね、当たり前の話なんだけど、霞に向かって刃を振り回すよりも確かな手ごたえがそこに存在すると分かった途端、私たちは感情を向ける理由をそこに見出して、愛やら怒りやら憎しみやら、をこぞって提供する事に目を向けていたい。

情熱枯れ尽きて、めくらめっぽう(もうこんな表現つかっちゃいけないらしい)に刃を振り回して手ごたえを探しているような気分の日がある。
いや、情熱なんて言葉でごまかしたけれど、蝶番の軋む自らの傷んだ体を前へ前へと進ませる原動力は、怒りや憎悪、独占欲、復讐心、政治的な思惑、そういったものの残滓でしょ。
自らの想像力のあまりの偏狭さに鼻白む気持ちもあるけれど、でもどうも、みんなそうなんじゃないかという疑りの気持ちが年々強くなる。
一方で、純粋にアカデミックな好奇心で前へ進んでいけるような世界が存在するとしたら、我が子もそんな場所へ足を踏み入れてほしいと、無責任に願っている。
でもね、天国はきっとないよ。
それを伝えられる強い心が私に備わるといいのだが。