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解像度という言葉について考えている。
才能の別名みたいな使われかたをしている気がする。まあでもそうかもね。
学生時代、鉛筆で線画をしているうちはまだ、出来栄えに満足いくことが多かったけれども、油絵具で着色を始めると途端に、のっぺりとした味気ない絵に変貌してしまい、落胆することがとても多かった。
美術の先生は「肌の色を塗るからといって、肌色ばかり使う必要はない。緑を使って見ても良いのかもしれない」というようなことを言っており、なるほどそうかと肌色と緑の二色だけを使ってみても、思った通りの…つまり、目の前の同級生を見た通りに描くことはできなかった。

真っ黒い学生服の、皺にどんな色の影が落ちているのか、どんな光をたたえて、織り方は綾なのか、平織りなのか、それらを表現するために必要な道具はどういったものがあるのか。

写生という取り組みは、肉薄すべき対象がすぐ目の前にあるという点で、「それ」が目の前にない他の営みよりも解像度を高めて描くことができるのだろう、か。
あんまり絵については詳しくないので分からないけれど。

私だけが空想して、私しか到達し得ない非現実的な一場面を描写する際は、ならば解像度を高める必要がない、または低質な描写でも他人にそれが気取られることはないかといえば、まるでそんなことは無くて、人々の心に浮かんだ「なんかいいね(なんかいやだった)」という感想はバカにならない気がしている。
むしろ空想で世界を描写する方が、写生よりも遥かに難しくて、なんの哲学も推敲に裏打ちされた決断もともなわず、「ただなんとなく」電線が一本もない表通りがあったり、あり得ない花序の花がてんでバラバラな方向を向いて咲いていたり、従者の指が一本失われていたりする。

例えば何気なくスマホのカメラを、その辺りの植え込みに向けて写真に収めた時の、その枝のしなりの経緯や内側だけ葉が枯れてしまっている様子、光のトーン、影の由来、紛れ込んでしまった、くしゃくしゃに潰れたハイライトのソフトケース、黄葉した銀杏の葉、それの腐ったものの堆積、車の通過する音、それがガソリン車なのかEVなのか含め…空想で世界を拵えるなら、まず現実をありとあらゆる視座から受け止める必要がある。

現実を見つめていた方が、よっぽど創作活動は捗るな。などと考えてみたりする。