昨日はSAKANA(希望も込めて、敢えてそう呼称させていただく)のライブにてコーヒーを淹れるという、それはそれは、光栄な…正確に言えば、メンバーのお2人が出会って音楽を始めた頃、まだ私はこの世に生を受けていなかったと言う点で、その長きにわたる音楽活動を正確に測り得る事ができず、したがってこの機会の貴重さも正確に測れていない、そんな仕事に就いた。
昔、人形浄瑠璃の先生の授業を受けた時、表現の本質とは「受け入れがたい物事の提示である」という話を聞いた。
この話が真実のものであるとするならば…受け手が「それ」を受け入れるのに、ある種の努力を要するものを表現とするならば…例えば「それ」以外の要素を、人口に膾炙した技術的な側面に沿って補い、表現内容を受け入れやすくするというアプローチに思い至る。
なんでそう考えるか?俺がマイルドヤンキーだらけの中学校で、いじめの対象とならずにある程度愉快な生活を維持するために、そういった見せるものと見せないものの塩梅を調整してサバイブしてきたからだ。
SAKANAを上のようなアプローチに沿って捉え直すと、表現の本質は間違いなく、ポコペンさんのストーリーテリングに近い歌詞と世界設定が我々に訴えかける「なにか」であって、西脇さんの甘い甘い音色のギターも、ポコペンさんのブルース的メロディラインや朗々として歌詞の聞き取りやすい歌声も、聴き手が本質に触れやすくするためにノイズを除去した、副次的な要素であると私は考える。
表現が私たち聞き手の心に何かしらの感情を惹起して、それが作り手の意図するものに近かった場合、表現行為としては成立しているのだろう。ご本人に確かめたことはないが、お2人の表現行為は、成立していると思っている(不躾な物言いに見える人!もう一度読み直してください)
ただ、そんなお2人、彼女でも、「一小節でもカタリカタリの楽曲のセンスがあったら…」という発言をされており、その発言を聞いた刹那は、「いやいやまさか…そうお考えなら楽曲は全く違ったものになるでしょう」と思った。それくらい、共演のカタリカタリとSAKANAの表現する美しさのベクトルは隔たりがあった。
だが一瞬ののちに、真実そのようにお考えなのだろうと気づく。ほかの演奏家の美しさを羨みつつ、自らの音楽的美学を提供することは両立しうる。一つところに留まろうとする理由、留まらせているもの、それがなんであるのかに私は興味がない。
彼女の心に、情けない気持ちが渦巻いているのか。他者に訴えかける表現行為を成し得て後も、人の心には他の何者にもなり得ない事実を悲しむ感情がついて回るのだろうか。それが私の知りたい点である。
私はいま、確実に誰かを妬んでいて、彼でも彼女でもないということにどうしようもない情けなさを覚えながら生きていて、しかしそれは永久に思ったような形で解決することはなく、私は私の生きるようにして、私の海を泳いでいかねばならない。
もしそうなのだとしたら、これはなかなかにしんどい遠泳だな、などと思う。