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魚は英語で fish と言いますし、主に捕食を前提として魚らを釣り上げる行為も同様に fish と言います。ひどくねえですか?アングロサクソン。
とはいえ、日本語版wikipediaや国語辞典も、魚の名称を調べると末尾の方には美味しい時期や調理方法が載っていたりする。基本的に人間と魚類は食べる以外の関係を持つことはほぼないのかもしれない。散歩させる人とか、聞いたことないもん。

トウモロコシが知性と移動するための器官を持ち、あろうことか人間を捕食し始めたとします。地球上のありとあらゆる場所に蔓延った植物が、人間を食べてお腹いっぱいになりに、一斉に襲い掛かります。
その際、例えばスクミリンゴガイの卵の匂いを嗅がせると人間が簡単に気絶してしまうとして、乱獲を前提としたその方法じたいをトウモロコシ界隈では『にんげん』と呼びならわしていたとしたら、何と悲しい気持ちになるだろうか。

テレビがある家族向きの割烹料理店や居酒屋の生け簀で死を待つ魚たちは、人間が、自分たち魚類をあらゆる方法で殺害し、調理して食べ、幸せそうな笑みを浮かべ、さらにその様子を録画・編集して公共の電波を利用して大衆に向けて発信する、世にも悍ましい生命体であると悟ったら、悟っていたとしたら、どんな気持ちになるだろうか、どんな気持ちが訪れているのだろうか。

ちなみに言っておくと、食糧のために動物を殺すのはやめよう、みたいな話をするつもりはさらさらありません。動物おいしいです。
単純に、自分が他の生命体に、捕食対象として捉えられたら、どれくらいの恐怖が訪れるんだろう、ということに興味が湧いただけです。
ニワトリが一日だけ人間の体を与えられて、立ち寄ったコンビニとか本屋で、同胞があらゆる方法でその肉を焼かれ炙られしている写真を見た際には、どんな思いがするのだろう。
そして、彼が(彼女が)ニワトリであると知っている唯一の人間が傍にいたとして、彼は(彼女は)どんな言葉をかけるんだろう?
千紗子と純太というユニットの『若光物語』という楽曲に「忘れないで 忘れてほしい どちらも嘘』といった歌詞があるのだが、きっとそこで交わされるあらゆる言葉が、言葉としての機能をまるで持てず、嘘にすらならないのかもしれない。
嘘にすらならない、って、なんて悲しいことだろう。