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自宅待機が明けて、今日は久しぶりに娑婆の人々と関わってみたわけだが、まるでインコである。脱走して、にんげんの言語にしばらく触れなかったがために、かつて真似していた人間の言葉が無惨に原型を失っているインコ。あれである。

このブログでも数年に一回は触れているかもしれないが、私は「かつて聞いたことのあって、発話の練習をある程度重ねたセリフしか喋れない」。人がどうかは知らない。
もう少し正確に言えば、感情の表現となるセリフは練習しないと全く口をついて出てこない。おやすみも、おはようも、会えて嬉しい、ありがとう、そういった言葉と私自身との間にとてつもない距離を感じている。
鏡の前で練習したセリフは数知れず。
どうしようもない欠陥だなーと呆れてしまうが、もう三十数年そういった身体と精神と付き合っている。呆れ飽きた。

したがって、コーヒーのテキ屋として、音楽イベントの企画者として、人に対して過不足なく意思を伝えるためには、日々、他人と交流して感情表現の手段を研鑽しておく必要がある。
それが、諸事情により(家族が流行病になりましてね)罹患者からも健康体の家族からも隔離されたため、鎬をけずる場を失ってしまった私は、上述のようなインコのごとき生命体と化してしまっている。悲しい、悲しいのに(たぶん。これも確かめなければ自分の腹のうちは即座にはわからない)、悲しいという感情を表現するのにもちょっとした手順が必要になる。

生まれた川を泳ぐ魚のように、流暢に言葉を交わすことができる人は羨ましい。し、私より遥かにたどたどしい物言いであったり、何をしていても言葉が口をついて出てこない、そしてそのままで収入を得られて納税も済ませられる人は、もっと羨ましい。

何かを捨てろと言われたら、私は真っ先に言葉を捨てるかもしれない。