10/26

今日は特に振り返ることがない。滞りなく動いた、ということなのかもしれない。
どこで何をして、誰と過ごしたのか、覚えてはいるけれど、思い出せない(とても矛盾を孕んだ表現である)。
喜びが心を訪れ、希望を語り合ったはずなのに、やりとりは滞りなく進んだ、がゆえに、思い出せない。難儀である。そういえば出目に興味があまりない。もう、賽が投げられたような気がしているのかもしれない。

人といて心穏やかに過ごせることなど、そうそうない。妻が傍にいる喜び、息子の成長を見守る喜び、それも考えようによっては波の一つであり、心を常に凪の状態で保っていたいのだとすれば、忌避すべき波であり、じゃあ俺の常態とはなんであろうか?波の訪れを避け、全てを拒むつもりなのか?などと自問することはある。喜びを、心が喜ばしく受け止めているのかどうか、少し自信がない。

人と会うために、会うまでの時間で、片付けて綺麗に整頓しなければならない物事が頭の中にたくさん散らばっており、私は電車の吊り革に捕まりながら、車のハンドルを握りながら、これらの物事を整理している。
時には頭の中で、これから会う人とどのような会話をすべきか、どんな交流をしていたか、記憶を掘り返して、イメージトレーニングをせねば相槌ひとつまともなものを返せない、といった強迫観念に駆られてさえいる。
よって、整理も終わらぬうちから、予定より早く待ち合わせ場所に訪れた人も、待ち合わせ場所よりも手前で私を認めて駆け寄ってくる人も許容できない。

「誰に対しても優しい、というより誰の扱いも一様ですよね」なんて言われたことがある。つくづく私なんぞに興味を持ってくれる奇特な人々の言葉によって、私は暴かれているな、と感じる。ただし正誤に関しては物申したくもなる。

実際そんなことはないし、また会いたいと思う人はいるし、人々に優劣を付けて接している自覚はあるし、それに伴う罪悪感も人並みに持ち合わせている。だからこそそれを悟られぬように、規格化されたような笑顔を見せたり、怒って見せたりするけれど、そういえば口角の上がり具合とか怒声の具合ばかり気にしていて、相手のことはまるで考えたことがないのかもしれない。だから、私が誰を大事にして、何を捨て置いているのか、あまり言い当てられたことがない。

あなたは誰ですか?もっと良く知りたい、という言葉は知っていても、良く知りたいという感情に心当たりがない。

「一緒にダンスしない?」と誘ってくれた友人がいた。男同士なのに、あろうことかチークダンスを踊って、俺は今でもあの時の幸福感だけを胸に抱いて生きているのかもしれない。

体を思い通りに動かすことができ、心が描いた物事を表現して伝えることができ、それを傍らの友人や家族も理解し、誤解の生じない瞬間を持続させることの、そのなんと難しいことか。
もう寝よう