10月が終わろうとしている。日記を少しも書き記そうともしないまま、日記に書き記すべきさまざまの情念が私を訪れては通り過ぎていった。つまり時間を無為に過ごした。
精神的な不調が永らく続いていた、しかしこれもひとえに、日記をつけるというルーティンワークを怠り始めたことに端を発するような気がする。
その日、起こったできごとを把握して…それがどれほど精度が低かろうと、言葉に変換して記す作業は、なによりも己の精神を穏やかに保つために欠くことのできない作業である。訪れた巨大な危機を、矮小化する事なく原寸大で抱きしめることは身体によろしくない、非常によろしくない。
日記を書き記す作業を怠ったことによる悪影響はもうひとつある。それは、一度始めた物事を止めてしまうことによる、自分自身への失望である。最近は飼い慣らせている気がしていたが、最近再び鎌首をもたげているこの感情は、もはや病的といってよい。
中学生の頃、ふたつ隣のクラスの女の子が好きになった。彼女は私と廊下ですれ違うたびに、私に小さく手を振ってくれていた。特に仲が良かったわけでもなかった当時、私はその小さな習慣が嬉しくもあり、同時に、その習慣の終わりが来ることを思って嘆き悲しんでもいた。事実、中学校卒業より前にその習慣は終わりを迎えた。それに、終わらせてしまったのは私なのである。
終わることがわかっているのに、人が何かを始めることをどうしてもやめられない理由がよくわからない。
よくわからないまま、私はなにかを始め、制約を自身に課し、時に誰かと手を取り合って、制約を互いに課す。
しかし、何かを成し遂げられなかった、終わらせてしまった、その事実は、私自身や約束を守れなかった彼や彼女との関係にいつも深い影を落とす。それがどうしても気に食わない。
エジプトに行こうといって、結局行かなかったことにより落とされた影を、私は別の形で払拭しようと躍起になっていたり、付き合いきれなかった友人に対する罪悪感から、逆に突き放して打ち遣っていたり、添い遂げられなかった恋人との別の婚姻制度について考えたりしている。私はとにかく自分自身の罪悪感とばかり闘っている。
久しぶりだね!という言葉に虫唾が走る。そんな話もあったね、と忘れたふりや本当に忘れることができない。傍にあれ、それができないなら消えてくれ、などと本気で考える。病的である。
…という過去があった。いや、現在進行形かもしれない。自分の事はよくわからない、と言って逃げおおせる狡さを身につけたので、悲しんだり怒ったり、そういった感情はごくごく一部の人にしか打ち明けられない。だいたいみんなそうだろう。他人と大差ない、というのは心地がいいもんだ。納税は快感だ。
何を言っているのかよくわからなくなってきた。とにかく、一度始めた物事を止める事は私は不得手である。できない、と言ってもいい。サンクコストを非常に毛嫌いするのかもしれない。経営者としては三流である。
マネタイズがもっと上手にできるようになれば、誰かに苦労を強いる事も抵抗なくできるのかもしれない。ますます三流経営者みたいな話をしてしまっているな。
私1人だけに課す課題だけを粛々とこなして、私自身を疲弊させて、気絶するように眠らせる事を、ずっと至上のものとして生きてきたのに、日記を滞らせてしまった。それによる弊害が、今月顕在化した。あれは、鬱と呼ばれる状態だったのかもしれない。
一度、やろうと思ったことは続けよう。コーヒーを売ろう、家族を養おう、日記をつけて、身体を動かそう。
それで、気絶するように毎日を終えるのだ。