1/9 日記

アニメ『プラネテス』の再放送が始まった。たしか学生時代、狂ったように漫画を読み漁っていた頃に、後輩の家に全巻揃っていて読んだのが同作との出会いだったように記憶している。現代版『銀河鉄道の夜』だ、となぜか当時そのように認識した記憶がある。細野晴臣が音楽を手がけたアニメ版『銀河鉄道の夜』は、よけいなBGMが一切省かれて、真空空間である宇宙に蔓延る無音、というものを否応なく意識させられた。『プラネテス』の世界は、あの作品に通底していた「無音」の延長にある、と思わせてくれた。

星空を眺めていても、宇宙の無音が聞こえてくることはとても少ない。空気は震え、色々な音を運んでくる。バイパスを走るトラックの音は私の子守唄だ。
星空を眺める歌で、星空それ自体を歌う人は少ない気がする。主観である。流れ星の落ちる先の町で眠るあなた、とか、同じ月をみてるあなた、とか、広大な宇宙をあくまで咬ませ犬…媒介、みたいに扱う人が多い。気がする。主観である。
レストランで、目の前に供された料理…いまなんとなくラグーが食べたいので、赤ワインで煮込んだ子牛のラグー、それもパルミジャーノ・レジャーノをこれでもかと振りかけたモノとしよう…を二人で食べようというのに、食べている私の様を見つめてどうこう言う人には、激しく興醒めしてしまう(あなた、ほんとうに美味しそうに食べるわね、などと褒められたとしても、である)。二人してこのパスタを愛で、そして食べれば良いではないか。
なんの話だっけ。星空を眺めていて、物理的に距離のある人、今ここにいない人に思いを馳せる傾向は不可避のものなのだろうか。今もじっと家の中で息を潜め、ガスストーブのボーという音に耳を澄ましてカーテンを締め切り、星空など眺めようともしない私を知覚するにつけ、尋ね人に心当たりのないわたしに星空は不要なのかもしれない。