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執念の話。

奥さんは食べ物への執着が男子高校生みたいな時がたまにある。アツアツの食事にガッついて舌を火傷することがあるらしい。男子高校生みたいだ。
ある日、天丼を食べたくて買ったのに、なんやかんやあって口に入らない時があって、彼女は天丼を食べたかったのに食べられなかった悔しさを覚えたそうです。で、次に天丼を食べる機会があったら絶対に腹一杯食べてやるんだと、そういう気概というか、執念をふつふつと煮えたぎらせて、後日、念願の天丼にありついた時には油で胃がもたれてしまったらしい。失意に打ちひしがれた彼女は以来、あんまり天丼を食べようという気にならなくなったとのこと。

亡くなった人のことを偲んだり、思いを馳せることを明確に避けている民族がいると、ポッドキャストで聞いたことがある。亡くなった日から起算して素数の年ごとに法要を開く宗教に加入(加入…?)している私には全く馴染みのない感覚だった。でも先に述べた天丼にまつわる出来事から敷衍して死を見つめると、この「思いを馳せる」という行為に少し陰が落ちる気がする。

だって、天丼自体は太陽のように(太陽も色々と変化しているらしいんですけどここでは割愛します)変わらぬ輝きを私たち衛星に住む生き物に提供してくれているわけで…、天丼それ自体はティラミスに変わることもゴム長靴に変わることもない。
変わってしまったのはあくまで私たち、つまり激しく追い求めたり胃がもたれたり突き放したりしている私の妻。

何かを見て何かを思う。それ自体は多分、うまくいけば7〜80年くらい続く人生をより楽しく生きていくためには非常に重要な営みなんで、しょう。たぶん。なんにも思わないとつまんないもんね。
重要なんだけど、重要さと同じくらいの比重で、余計なものでもあるんでしょう。

こういう、「無いままで生きていけることができたらそれに越したことは無いんだけど、変人だと思われるなどの弊害が多いから仕方なしに各種取り揃えていて、いつかその日がきたら真っ先にぶん投げて捨ててやろう」と思っている物事が、人生にはあまりに多いよね。

初めて見るのに「忘れ物だよ」って言われるのは、なかなかしんどいものです。