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フィクション…特にホラーやオカルト作品に暗喩されている、社会を取り巻く時勢、またその皺寄せが引き起こす一つの不幸といったものの輪郭が見えてきた瞬間ってのは…それが作り手の意図しないものであったり、私の一方的な勘違いによるものだったとしても、まあなんか、現実に引き戻される。時折もの悲しくなる。

どこかで目にした旅行譚で、「もともとタヌキのいないこの島でタヌキが神格化されて祀られているのは、もしかしたら、島の有力者が船で誤って害獣であるタヌキを持ち込んでしまって、誰一人、彼ら有力者を糾弾することもできず、臭いものに蓋をした結果ではないだろうか…」といったことが書かれていて、非常に示唆に富んでいるなーなどと感じ入った。
こういう現象って、昔の話だと笑って済ませること、全然できなくて、現代であっても、日本中のあらゆるオフィスやなんかで起こりえますよね。上長の犯したミスをミスと認めることが誰にもできなくて、結局既存のルール自体を改変せざるを得なくなった組織。ぎくぎくっ、とした方はいるのだろうか。

おばけや妖怪、神隠しの類も、実在する事件や犯行を暗喩していたり、夜這いの口実を設けるために開かれる、女児だけが人前で踊る祭りなんかも、存在しているでしょう。いや存在していなくても、特定の立場の人間にとっては十分に意義を見いだせるような明快な構造が頭の中で想像がつくと、うっ、気持ちわるい…と思う。そんな、伝記やフィクションの元になった事件の存在じたいを疑問に思われた方は、バートリ・エルベージェトという最高に狂った女性のことを調べてみるといいです。彼女が吸血鬼の伝承の元になった事件を起こしてるみたいです。フィクションは時として現実の後追いの座に収まったり、または過去の出来事を悼む人たちを慰めるために紡がれることがあるわけです。
なにが言いたいかというと、フィクションをフィクションとして「のみ」見るということができなくて、毎度毎度、現実世界の特定の構造に当てはめてしまいたがる貧乏性みたいなものが、時折煩わしく感じるのです。こまった傾向だけど、このフィクションに対する邪推と特定の社会構造との近似性を見出した時の、一時の快感がキモチクてですね。しばらくして興ざめするんだが、この快感がやめられない。

で、『ウツロマユ』という非常に評判の高いホラーゲームを見ていたら、マルチエンディングのうちの一つの落ちが、ヤングケアラーやんけ、ということに思い至って、なんだかものすごく、悲しくなった。

いや、別に、いいんですけどね。クリスマスイブに、何を考えてるんだか。