音楽のありかた

音楽の未来について思いを馳せている。
畑を耕しながら、カミキリムシの幼虫をヒヨドリに供しながら。
じっと身を潜めていて、過ぎ去っていく問題ではない。
もう過去は過去だ。過去のフォーマットに頼る音楽は、私たちに望郷の念は起こすが未来を想像させてはくれない。
一緒に椅子に腰かけて、どうする…?なんて、力なくほほ笑むのはごめんである。それは、たった一人で解決すべき事柄だからだ。
臭いものに蓋をするようにして、見つめるべきところ見つめてこなかったツケが今こうして明証の光に照らし出されているだけなのだろうか。
身体を触れ合うかどうかまたは、汗臭いTシャツに囲まれながら、煙草の煙にもまれ、酒を飲み、大音量の音楽に耳を傾ける、という時間の過ごし方は、懐かしむ過去としてうちやっておく。
人間の身体に対する捉え方を、今一度考えなおすタイミングなのだろうか。
一度の演奏で、同時に、楽曲を供することができる人間の絶対数を増やしていくことを、電気に依る音響装置、増幅器は手助けしてきた。
それらの副次的な装置は音色を多彩に変化させていくために必要不可欠な装置となってきた。
音色を変化させてまで、絶対数を増やすことを志向したのはどういう理由に依るのだろう。
経済原則?
もとはナチ党が発祥の、 public address を用いた演奏会は、当然のように聴衆の数を増やすことを目指してしまうのだろうか。
ならば、ハコと収容人数の上限をあらかじめ設定したうえで、成立させることを目標とした音楽も、想像ができるはずだ。
インスタレーションに近くなってくるのかもしれない。それもまた生き残る道だろう。
酒とばかり付き合いの深い音楽だけが生き残る必要もない。
色々考えてみる。夜の森を見つめるときの恐怖心に似たものが心をわしづかみにしてくる。
しかし退屈はしないだろう。