雑然と思うでしょう

ガットギターを弾いていると、時々弦を弾く指先に目がついているような感覚を覚える。
目、というと正確さを少しく欠いているかもしれない。
指先にそれが備わる事で初めて、私はナイロン弦を間近に見て聴いて、触ることができているように思える。
猫が小さかった頃、私は可愛さ余って、口を大きく開けて猫の顔を咥える、という遊びをしていた。今思うと猫は大変に怖かっただろう。
頭や首の周りを毛並みに沿って撫でているだけでは本当に触れた感じがしなくて、どうしたらもっとこの小さな生き物に近づけるのかを私は考えた。
その結果いきついた奇行でも、私は猫に本当に触れられたような気がしなかった。

以前、座禅を組みに寺に通っていたことがある。
愛知では一度だけ、妙興寺に参禅した。夏真っ盛りで…一般の参禅者の前にひとつずつ、火のついた蚊取り線香が置かれていくのだが、たまたま末席にいた私の前には蚊取り線香が置かれなかった。
開始の合図とともに、ガタンと窓を何枚も開け放つ音が聞こえる。数秒遅れて、耳は私の顔に向かってくる無数の蚊の羽音を捉えた。
あの時、私は深く目を瞑り、意識を体の外側へと放って、禅堂のどこかへと飛ばそうと、それ自体に躍起になっていたために、特に痒みを感じることなく乗り切ることができた。
後で鏡で見てみると、もう笑ってしまうくらい、刺された後がそこかしこにあったわけだが、ぼこぼこで赤らんだ顔は勲章だった。
私たちが私たちの存在に気付く主体である、この意識と呼ばれるもやっとした霞のようなものを、誤魔化したり、なだめすかしたりすることは案外容易である。
その場合、一体だれが主体となって意識をあやしているのだろうか。
足元に生き物が蠢いている気配を感じて、ドクダミをよけた私の目に飛び込んできたのは、腐敗したムクドリの死骸に湧く大量の蛆虫であった。
世にもおぞましい光景に私の胸は嫌な弾み方をみせたが、少年漫画で描かれるような集中線が蛆を囲うわけでもなく、目線を上げればそこにはいつもと変わらぬ新緑がある。
動悸は蛆でもムクドリでもなく、私の意識が起こしたものだ。
私はこの意識とかいうやつと、どこまで決別できるのだろうか。
うーん、ここでいう私とは誰なんだろう。