ラッセ・ハルストレム監督の映画を観る。
4本目、タイトルは『ギルバート・グレイプ』。
心を確かに支えていなければ、登場人物たちの会話する様、逆手で手にしたスプーンの中、牛乳に浮かぶブヨブヨのオートミールなんかが、私が普段の暮らしの中で会話をする誰かに似ていることを見出してしまいそうで、受け入れがたく感じてしまう登場人物たちを、ある種、離人症的な画角で切り取るために、咀嚼なくすんなり飲み下せるような印象を持つ。
長ったらしくなったが、つまり彼の撮る田舎者が好きなのだ。
陳腐な言葉を吐く大酒飲みの親父は親父のまま、お化粧されることも過剰に俗悪に描かれることもないままに、雑然とそこに放置してある感じが、いい。
日本の映画は逆に、最近まったく手が伸びなくなってしまった。
日本語が怖いのかもしれない。
背表紙の登場人物を眺めていて、彼は突然大声を上げるかもしれない、といった恐怖を感じると、そっとDVDのスリーヴを基に戻して立ち去る。
私の母語はどうして、こう一足飛びに懐に入り込んでくる心地のするんだろう。
それとも本格的に学んでしまえば、どの言語もそうであるのだろうか?