詩よ蔓延れ

何処にもいかないようにすることはできるだろうか。
緊急事態宣言解除の号令があったけれど、世の中のムードは劇的には変わらない。
畑を耕し、家を整えコーヒーを焼く、私の生活もしばらく続いていきそうだ。
液晶画面越しのブログやコラムを目にする時間が長くなる。すこし食傷気味だ。
それらの文章には(おそらく)社会的意義があり、読み進めていくうちにどこかで、筆者のこさえた要諦や結論に触れることができる。
論理が飛躍していることもままあるが、基本的には予想の範疇におさまっている。人間の身体の動きの範囲内で、もぞもぞしている。
右足を踏み込んだら、次に背中のプロペラで風を起こして空を舞ったり、指を鳴らして足元の極楽鳥花を一気に咲かせる、みたいな突飛な次展開が待ち受けていることは、あまりない。そこに疲れた。飛べ泳げ、溶けろ人間の文章。そういう気持ちだ。
不満をぶつける対象を間違えている。そういう時は詩を読む。
もちろん月を愛で花を愛するような類の詩ではない。よくよく聞いたら恋人のことを詠っていた、なんてのはもう興ざめである。
といいつつ、私の好きな詩に何が書いてあるのかは、よくわかっていない。
当時の政権批判なのか、言い知れぬ恐怖なのか、年老いていく労働者の叫びなのか、想像の手は節操なく四方八方へ伸ばされるが、なにも掴まない。
カメラワーク、映画の一連のシーンの流れとしてみると、非常にダイナミックなときがある。
オペラグラスをのぞく子供を撮っていたかと思えば、次のシーンでは一緒に双眼鏡の中を覗いている。
百年前の難破から、昨日の夜の献立まで、活字を追う目の移動だけで膨大な時間を旅行できる気分になる。
さすがにこういった楽しみは、現実的な生活の中であくせく働き募った、思うところを綴った文章には見いだせない。
だから詩よ、もっと蔓延れ。
これが私の今日の思うところである。